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 私の好きな漢詩   

第5回は全日本漢詩連盟幹事
清洲 浅岡清明氏に
お願いしました
 

わたしの好きな漢詩

       -傳陶淵明作「四時歌」又は顧愷之作「神情詩」-

                            全日本漢詩連盟監事 

                           清洲 浅岡清明

 私の好きな漢詩は数多くある。しかし、その中からただ一首を挙げよとなれば、この詩以外にはない。何故か。この詩は、私が「詠四時・○○」詩(「四時を詠む・○○」詩:○○は主題)を詠む際の、バイブルともいうべきものだからである。詳しくその理由を述べるために、先ずこの詩を見てみよう。手元の石川忠久先生著『漢詩をよむ 陶淵明詩選』(2007(平成19)年6月15日、日本放送出版協会刊)から、原詩、書き下し文及び口語訳を、以下に引用する。

 

   四時歌   四時の歌  

   春水滿四澤  春水 四沢に満ち

  夏雲多奇峰  夏雲 奇峰多し

  秋月揚明暉  秋月 明暉を揚げ

  冬嶺秀孤松  冬嶺 孤松秀ず

           (五言絶句・冬韻)

  春は水が四方の沢に満ちる。

  夏は入道雲がすばらしい峰を形づくる。

  秋は月が明るく輝いて中天にかかる。

  冬は嶺にすっくと立つ一本松の緑が鮮や

かだ。(前掲書152頁~153頁)

 

 一読して分かるように、「この詩は、『春夏秋冬』の各々の季節の最も代表的な情景を描いたもの。」(前掲書153頁)で、一年間という長い時間における自然界の移り変わりを鮮やかに、そして端的に表現している。この詩を私の好きな漢詩の第一に挙げる理由の一つめがここにある。短詩の極北ともいうべき俳句を詠む際の基本的な態度として、「いま、ここ、われ」ということが言われるが、漢詩の短詩形である絶句の場合も、詠詩の対象は、比較的短い時間における事象を取り上げることが少なくないからである。

また、この詩は「四季の特色を、一句五言にとらえ、四曲仕立ての屏風のように並べてみせ」(前掲書153頁)ている。ここに、この詩をわたしの好きな漢詩の第一に挙げる二つめの理由がある。「四季の特色」を、漢詩における近体詩中の最短詩形である「一句五言にとらえ、」て、それらの独立的な四句を「四曲仕立ての屏風のように」、ただ季節の順に「並べて」一首を構成して「みせ」てくれているからである。もとより、このことは、石川忠久先生がいみじくも、「これは後世の絶句の起承転結とは異なり、それぞれの句の機智のひらめきが面白い作品になっている。」(前掲書153頁)と指摘されておられるように、「後世の絶句の起承転結」を軽視することを意味するのではない。むしろ「起承転結」の原理によりかかりすぎて軽視されがちな、漢詩における一句の成立の重要性、換言すれば作詩における一句作りの大切さと、「一「句における機智のひらめき」が肝心であることをこの詩が明らかに示唆してくれるところに、この詩を私の好きな漢詩の第一にかかげる理由の三つめがある。

これら三つの理由によって私は、この五言絶句「四時歌」を、私の好きな漢詩の第一に挙げるのみならず、私の作詩のバイブルとも看做すのである。

なお、この詩は、「淵明の作とつたえられるものの、淵明の集にはなく、東晋の芸術家であり、文才のあった顧愷之の作とする説がある。また、淵明の長詩の一部ともいわれる。」(前掲書153頁)とされるように、究極の作者や詩篇がが特定されないことも何か謎めいて引き付けられるものがある。この詩の作者を顧愷之とみる一人は、この詩を「実は顧愷之の長編古詩「神情詩」の一部分と見るべき」(山田勝美著『中国名詩鑑賞辞典』(昭和58年4月30日、角川書店刊、82頁~83頁)として、この詩の題名を「神情詩」(神情の詩)摘句)としている。本稿の副題は、このことに考慮したものである。

 以上



 


 私の好きな漢詩   
第4回は全漢連常務理事
桜庭慎吾氏にお願いしました
 



               私の好きな漢詩

          杜甫の“月夜” “石壕の吏” “春夜喜雨” 

                  桜庭慎吾(全日本漢詩連盟常務理事)

 -はじめに-

 本稿では掲題のように杜甫の詩、三篇をとり上げた。好きな漢詩と銘打って、なぜ杜甫の詩ばかりを取り上げたのか。それは杜甫という詩人が好きであり(宋の蘇軾の人柄と詩も好きであるが)また尊敬しているからでもあるが、この3篇を併せて読むことによって、杜甫の長所を理解していただけると考えたからである。

“月夜”と“春夜喜雨”は抒情詩として詩情に溢れ、読んでいて心が潤々としてくる。ご承知のように杜甫の名詩として愛唱されている詩である。“石壕の吏”は反戦詩として、杜甫の社会的な正義感が“すぱっと”表現されている詩で、戦争と言う社会現象を観察して、その本質を見抜きその問題点を指摘することは官吏としてなかなか勇気のいることである。その様な意味で“石壕の吏”は詩経以来の詩の伝統をふまえた社会批判の詩、すなわち風諭の詩として秀れた格調を示す詩であると小生は考えている。

そして杜甫45歳より50歳までの6年間を、杜甫の行跡をたどることを意に置き、その間の杜甫の考え方や行動を読み解く為に、関係する詩も紹介することに努めた。

 杜甫44歳、天宝14(754)年、11月、安禄山は范陽に謀反した。そして杜甫にとっては48歳の棄官という運命の転換点を含む波乱に満ちた6年間である。杜甫は直面する運命にどのようにむき合い、またどのように行動したかを考えながら本稿をすすめてゆきたい。
 

 本稿の構成

 杜甫(712770

清水書院 鈴木修次著 杜甫 より

 

    1. はじめに

    2.私の好きな漢詩

     (ⅰ)月夜

     (ⅱ)石壕の吏

     (ⅲ)春夜喜雨

    3. おわりに

    4. 引用・参考図書一覧

2-(ⅰ) 月 夜

 それでは「月夜」の詩を読んでいこう。

        月 夜  月夜

    今 夜 鄜 州 月  今夜 鄜州(ふしゅう)の月 

閨 中 只 獨 看  閨中に ()だ独り看るならん

遙 憐 小 兒 女  遥かに憐れむ小児女の

未 解 憶 長 安  (いま)だ長安を憶うを(かい)せざるを

        香 霧 雲 鬟 濕  (こう)() 雲鬟(うんかん)湿(うるお)

清 輝 玉 臂 寒  清輝 玉臂(ぎょくひ)寒からん

何 時 倚 幌  (いず)れの時か(きょ)(こう)() 

雙 照 涙 痕 乾  (なら)び照らされて(るい)(こん)乾かん

 

  「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫 石川忠久編より、語釈および通釈を引用、以下「石壕の吏」・「春夜喜雨」も同様)。

 
         

   清水書院 鈴木修次 著 杜甫より

 語 釈

 1.鄜州…現在の陜西(せんせい)()(けん).閨中…寝室、女性のいる部屋の中。 .只、只管、ひたすら。 .小児女…幼い子どもたち。当時杜甫には二人の男の   子と何人かの女の子があった。

 5.香雲…夜霧、 香は美しくいったもの。 6.雲鬟…雲のように豊かに結い上げ   られたまげ。 

 7.玉臂…玉のようにつややかなひじ。 8.虚幌…静かな部屋のカーテン。
 9.双…妻と杜甫の二人を指す。

 通 釈

 今夜の鄜州に輝くこの月を、

 妻は寝室の中から、只一人でさびしく眺めていることであろう。

 遥かにいとおしく思うのは、幼い子どもたちが、長安に捕らわれの身の、この父を思 うことすら知らないことだ。

 寝室に流れ入る夜霧に、妻のあの美しい髪の毛はしっとりと湿い、

 清らかな月光に、妻の玉のような腕は冷たく照らされていることだろう。

 ああ、何時になったら静かな部屋のカーテンにより添って、

 妻と私と二人ともに月光に照らされることができるだろう。その時には別離の涙のあ とも乾くであろう。

 杜甫45歳、至徳元(756)年秋の作である。前年の秋に勃発した安禄山の乱を避 け、家族と長安の北方の白水県の舅氏の崔少府の家に居り、次いで6月、家族を更に 奥地の鄜州の(きょう)(そん)に疎開させた。肅宗(しゅくそう)(れい)()に即位したことを 聞き、単身蘆子関(ろしかん)を出て行在所に行こうとしたが途中、賊軍に捕らえられて長 安に幽閉された。下級官吏であった事が幸いして胡人の監視も厳しくなく長安の街を あちこち往来していたとが当時の詩から読み取れる。

 春望の詩はこの月夜の詩の翌年春に作られている。

それでは“月夜”の詩にもどろう。    

 首聯、自分のいる長安からからではなく、“今夜鄜州の月”と詠み始めたのは杜甫の非凡なところである。下句の“閨中に只だ独り看るならん”と妻が月を看ている姿を描写する。この句の下三字のうち“只”はかるい気持ちのただではない。只は只管(ひたすら)と熟するように、じっと見詰めているということである。すなわち長安にいる夫の事を考えて長い間、月をみて立ち尽くしているのである。

 次の頷聯、子供達はまだ父親が長安に離れている事の意味を理解することが出来ないと述べ、その背後にいる妻のことが自ずと連想されるようになっている。首・頷聯の四句は屈曲に富んだ表現で詩に奥行きを与えている。

 次の頚聯は、長い間、外気に当たって月を見詰めている妻の玉のような(わげ)には霧の粒が凝結し、(ひじ)はすっかり冷えきっていることであろう。唐時代の、雲なす(わげ)は、薬師寺の吉祥天像の姿を想像していただきたい。ここでも首聯の“只獨看”と頚聯“湿”と“寒”の字が呼応しているのである。妻を思ってのいたわりの気持ちを述べて杜甫の優しさが出ている。また己が妻に“香”“雲”“玉”のような美称を使うことはさすがの杜甫も困って、陳腐な六朝時代の語を使ってしまったと言う指摘(高島俊男・李白と杜甫)があるが小生はそのようには考えない。自分のいる長安とは数百里も離れた所で、心細く悲嘆のなかで暮らしているであろう妻を思って、エスティック・デスタンスの気持ちが働いて、意識的にこの様な美称を用いたものであると考えられる。

 最後の尾聯、下句の“双照”の“双”の字が、首聯の“独”の字と呼応している。“いずれの日にか(ふた)り並んで月光に照らされて涙痕乾かん”と結んでいる。何時の日にか、曾って鄜州と長安と別れて暮らしていた時間を埋め合わせるべく、涙の乾くまで一緒に月を看ていようと述べている。

 「杜詩詳注」で、清の仇兆鰲(きゅうちょうごう)は、その伉儷(こうれい)(夫婦の)の篤きことかくの如しと評している。

 

「閑話半席」

 今から20年程前のこと小生の現役のころ、とある高楼で金曜日の夕刻に友人と酒を斟み交わしていた。折しも東京港の上には満月が昇り始めていた。友人は札幌に家族を置き単身赴任であった。そこで何気なく“今夜 札幌の月 閨中で只だ独り看るならん”とやって、杜甫の月夜の詩を紹介した。(さかな)もつき、酒もやや飲みすぎたかなと思える程で気分よく友人と別れた。

 翌日の土曜日、別件で友人に架電したが不在であった。あとで判ったことだが、 急遽、札幌に帰ってきたとの事で、杜甫の名詩“月夜”がこの様な効き目を出したとは私自身がびっくりしたことである。

 

 次は石壕の吏に入ろう。

              石壕吏 目加田 誠 漢詩選・9より
石壕吏    石壕の吏 (五言古詩)

  暮 投 石 壕 邨  暮に投ず 石壕の邨 

  有 吏 夜 促 人  吏有りて夜に人を(とら)

     老 翁 踰 牆 走  老翁 (かき)(こえ)えて走

  老 婦 出 門 看  老婦 門を出でて()

  吏 呼 一 何 怒  吏の呼ぶこと 一に何ぞ怒れる

  婦 啼 一 何 苦  婦の啼くこと 一に何ぞ苦しめる

  聽 婦 前 致 詞  婦の(すす)みて()を致すを聴くに

  三 男 鄴 城 戍  三男(さんだん)(ぎょう)(じょう)(まも)

  一 男 附 書 至  一男(いちだん) 書を附して至り

  二 男 新 戰 死  二男(にだん) 新たに戦死す

  存 者 且 偸 生  (そん)する者は(しばらく)く生を(ぬす)

     死 者 長 已 矣  死せるものは(とこ)しえ()んぬ

  室 中 更 無 人  室中 更に人無く

  惟 有 乳 下 孫  惟だ乳下の孫のみ有り

  孫 有 母 未 去  孫に母の未だ去らざる有るも

  出 入 無 完 裙  出入に(かん)(くん)無し

     老 嫗 力 雖 衰  老嫗 力(おとろ)えたりと(いえ)ども

     請 從 吏 夜 歸  請う 吏に従いて夜帰(よるき)せん

  急 應 河 陽 役  急に河陽の役に応ぜば

  猶 得 備 晨 炊  猶お晨炊に備うるを得んと   

  夜 久 語 聲 絶  夜久しくして語声絶え

  如 聞 泣 幽 咽  泣きて幽咽するを聞くが如し

  天 明 登 前 途  天明 前途に登り

  獨 與 老 翁 別  独り老翁と別る

 語 釈

1.石壕…現在の河南省(せん)県にあった村。 2.投…投宿する。 3.促人…徴発する4.牆…土塀  5.走…逃げる。 6.一何…なんと ・・・ではないか、詠嘆。 7.到詞…ことばを申し上げる。 8.三男…三人の息子。 9.鄴城戍…鄴城の守備、鄴城は現在の河南省臨漳(りんしょう)県。ここで乾元二(759)年、安慶緒・史思明の軍と官軍が戦い、官軍は大敗した。 10.附書至…手紙をことづけて、それが着いたこと。 11.存者…生きている者 12.且偸生…今のところどうにか生きている。 13.長已矣…それでおしまい。 14.乳下孫…乳離れをしていない孫。 15.完裙…満足なスカート。 16.老嫗…老婆。  17.河陽…現在の河南省(もう)(けん) 18.晨炊…朝の炊事 19.如聞…聞こえたような気がした。 20.幽咽…声を忍んでむせび泣く。 21.天明…夜明け。

 

通 釈

 日暮れ時、石壕の村に投宿すると、 役人が、徴発で人をつかまえにやってきた。

 その宿のおじいさんは、土塀を()えて逃げ去り、おばあさんが、口を出て役人 に応対している。役人のどなり声の何と怒りにみちていることか。

老婆の泣き声の何と苦しそうなことか、老婆はやがて役人の前にすすみ出て、申しひらきをする。それを聞くと、「私の三人の息子たちは、すべて鄴城の守備についています。一人の息子が手紙をことづけてよこし、その手紙が着きましたが、二人の息子は最近、戦死してしまいました。まいる者も、しばらくの間生きているというだけのこと死んでしまった者は、もう永遠におしまいです。家の中にはもうだれもいません。

 ただ、まだ乳離れしていない孫がいるだけです。孫には、夫の戦死後もまだこの家を去らずにいる母がおりますが、家の出入りに、満足にはけるスカートも無いありさまです。

 この老婆は、年をとり、力は衰えておりますが、どうぞお役人に従って、今夜にも参りましょう。いそいで河陽の労役につくことができれば、これでもまだ、朝の炊事の支度ぐらいはできるでしょう」と。

 夜もすっかり()けて、話し声もとだえ、かすかにむせび泣くのが聞こえてきたようだ。夜明け方に、私はまた旅路についたが、ただ一人、おじいさんと別れをしただけだった。

 石壕の吏を読んできて、庶民を戦争に徴発する悽惨な様相とまた庶民の悲嘆が老婆の言葉を借りて客観的に述べられている。

 すなわち8行目の“三男(さんだん)(ぎょう)(じょう)(まも)り”以下20行目の“猶お晨炊に備うるを得んと”までは、老婆が徴発を強いる吏に訴える言葉であり、杜甫がそれを隣室で聴いているという構成であり、読む人に強い衝撃を与える。

 そして結尾の“独り老翁と別る”の表現のなかに、戦場に赴いたのは老婆だけでなく、暗に嫁と孫も連れて行ったことが察せられ一層悽絶(せいぜつ)を呈する。

 杜甫にこのような詩を書かせた動機は何であろうか。それは詩経以来、伝統となっている諷諭の精神には違いない。脈々と流れる中国の文学の基調の上に、杜甫の持っている社会的正義感が加わってこの様な詩を作らせたと考えてよいであろう。

 8年前の杜甫40歳の「兵車行」の詩を振り返ってみよう。

   ・・・・・・・・・

  千村万落(ばんらく)荊杞(けいき)を生じ

  (たと)い健婦の(じょう)()()る有るも

  ()(ろう)()に生じて東西無し

・・・・・・・・・

   君見ずや青海の(ほと)

      古来白骨人の収むる無きを

   新鬼は煩冤(はんえん)し旧鬼は哭す  

(くも)り雨湿(けぶ)るるとき声啾啾(しゅうしゅう)

 通 釈

 多くの村々は荒れ果てて(いばら)やくこが生い茂っているということを

 たとい留守を守るけなげな妻たちが、すきやくわを取って耕しても、

 稲は、うねやあぜに雑然と生えて、西も東もありません。

・・・・・・・

 諸君、ごらんよ、あの青海湖のほとりを。

昔から白骨が散らばって、だれも収める人はない。

幽霊になったばかりのものは、もだえ恨み、旧い幽霊は大声で泣いている。

天が曇り、雨がしとしとと降る時には、幽霊の泣き声が悲しげに聞こえてくるではないか。

この結尾の“声啾啾(しゅうしゅう)”の三語は詠い出しの“車轔轔(りんりん)”“馬蕭蕭(しょうしょう)”と続けて読むとき、響きが連環して音韻上の効果を上げ一層悽絶を増す。

“兵車行”からスタートして8年間、杜甫の諷諭・反戦の詩の詠いぶりは、社会的正義感を裏打ちとして、庶民の側にたって物事を考えるという彼の人間的成長によって、“石壕の吏”のこのような成果に至ったのである.

また、つい10ヶ月程前の長安の肅宗の宮延に左拾遺として仕えていた頃にフィルムを巻きもどしてみよう。職務に忠実であろうとの考えから奏上した諫言が皇帝に嫌われ、杜甫は窓際に追いやられた。

   朝より(かえ)りて日日(ひび)春衣を(てん)

   毎日江頭に酔いを尽して帰る

      酒債は尋常 行く処に有り

   人生七十 古来稀なり

・・・・・・・

朝廷の勤務からさがってくると、毎日毎日春の衣服を質入れして、曲江のほとりで酒を飲み、酔ってから帰る。

酒の借金は普段行くところ、どこにでもあるものなのだ。そんなことより、人生は短く、70まで生きた者はこれまでめったにいない。せめて生きている間、酒でも飲もうではないか。

  (曲江二首の其二,乾元元(758)年・春作。 漢詩鑑賞事典より)

古稀の熟語を生んだこの詩の時期、杜甫の人生において最もデカダンな時期と私達の眼に映るのである。そして窓際の杜甫には次なる大きな運命が待ちうけていた。

             前半は以上    以下続く (桜庭慎吾)   

                   

 杜甫の運命の大きな転換点とは、左遷とそれに続く棄官である。すなわち乾元元(758)年6月に杜甫は中央を逐われ地方職へ遷された。華州の司功参軍という州の文書関係いっさいと、民衆の宣撫(せんぶ)、官吏の取締りなどにあたる官である。そしてその冬の末に故郷の洛陽を訪れ、翌春には洛陽から華州に帰るのであるが、その往復路に見聞した事が、三別の詩に描写され当時の情況を私たちに伝えてくれる。この時の戦乱に巻き込まれ、疲弊(ひへい)した農民の姿、また困窮する庶民の生活など詳細な描写は詩史(詩による歴史の記述)ともわれ、安史の乱の歴史的事実を現在に伝える貴重な資料でもある。

 さきにも述べたが10ヶ月程前には、曲江のあたりで毎日、酒に憂さを晴らしていた杜甫は、いま農村を巡って徴発される庶民の困窮する姿を詩に写し取ることこそが、自分に課せられた使命であると気付いたのである。杜甫は(よみがえ)ったのである。

 何が杜甫をこのように変化させたのであろうか。それはひとことで言えば、人間に対する限りない愛であり、換言するなら封建社会と言えども、人がこの様に扱われても良いのだろうかという一種の怒りであり、敷衍(ふえん)するならば、人は生まれながらにして平等であるという理念、即ち現代の民主主義にも通ずる考え方を杜甫は持っていたと小生は考えている。

 さて、三吏三別の詩より半年程経った乾元2(759)年、杜甫は官を棄て、家族をひき連れ食糧を求め長安を発した。行路は渭水を(さかのぼ)甥の()()を頼って秦州を目指した。以降12年間に及ぶ流浪の生活の始まりである。

 棄官に際しての杜甫の心情を推察することができる詩は少ないが“立秋後題”(立秋の後に題す)の詩の中で

平生より独り往くを願う。

  惆恨 年半百

 官を罷めるは(また)人に由る

 何事ぞ形役に(こう)せられん

 通 釈

 天地の間を思いのままに逍遥する自由の生活に憧れていたが、

 俗事にひかれて、もう50歳近くまでになってしまった。

 役人生活を罷めることになったのも人に由るのであるが。

 もう、今後は俗事に身を屈し、拘束されることはしないぞ。

                (杜甫・鈴木修次 著より)

 と詠い、今よりは自由詩人の生活に自分をかけてみようとする考えが読み取れるのである。

 杜甫の人生で最も大きな運命の岐路であった棄官について、杜甫自身は全くと言っていいほど何も語っていない。ただ前掲の“官を罷めるは(また)人に由る”の言葉が示すように、親しくしていた宰相の房琯(ぼうかん)左遷の影響をうけて、宮廷内の政争による左遷であったと後世の史家の論ずるある。

 さて、家族を引き連れて秦州への旅は、厳しい西北中国の山岳の路を辿り困難を極めた。秦州雑詩20首のうちからその有様を紹介してみよう。秦州は現在の甘肅省天水である。

 満目 生事を悲しむ

 人に困りて遠遊を作す

・・・・・・・・

西征して峰火を問い

(くじ)けて此に淹留(うんりゅう)

 何を見ても人間の不如意を悲しませるものばかりだ。

 わたしはこのたび人をたよって遠くに旅行することになった。

・・・・・・・・・・

 西に旅して戦争のもようをききただす私は、心もくだけてここ秦州に逗留することと はなった。

                 (杜甫・上 黒川洋一 注、中国詩人選集9より

 秦州でも期待した程の食糧と住居は得られず、次の同谷(現在の甘肅省成県)に移る。そこでは年末に食糧は尽き、あかぎれの手で猿の食べ残した(どん)(ぐり)を拾い、髪をふりみだして過ごす杜甫の“自画像”が描かれている。

 乾元中、同谷県に寓居して作れる歌、七首の一

  客有り 客有り 字は子美

  白頭の乱髪 垂れて耳を過ぐ

  歳々(としどし) (しょう)(りつ)を拾うて()公に(したが)

  天は寒く日は暮る 山谷の(うち)

  中原 書無くして帰ること(かな)わず

(しゅ)(きゃく)凍皴(とうしゅん)し皮肉は死す

嗚呼(ああ) 一歌す 歌(すで)(かな)

悲風 我が為に天より来る 

たびびと、たびびと その字は子美という。頭は白く、乱れた髪は耳よりも垂れ下がっている。そらは寒く山の谷ぞこの町に日の暮れかかろうとするとき、

さるの食べ残したどんくり拾ってまわる、

くる年もくる年も。

故郷の中原からはたよりもなく帰ろうにも帰られず、

手足はこごえあかぎれ、皮膚も肉も感覚を失ってしまっているわたし。

ああこの最初の歌をうたう、その歌ははじめから悲しみに満ちている。

悲しげな風がわたしの気持ちに感じてか天から吹き下ってきる。 

           (杜甫・下 黒川洋一 注 中国詩人選10より)

このような艱難(かんなん)な行路はさらに続き、その年の末に蜀の桟道の危路を超えて四川省の成都に辿り着く。

成都に着いた杜甫は友人達の助けにより、家族と住む茅屋を建て、自家菜園を設けた。また友人達に詩を贈り果樹や松の苗を無心し陶磁器などの生活用品もその好意により調えた。茅屋の浣花草堂は成都の西七里,錦江にかかる万里橋の西、浣花渓のほとりに位置する。

成都での生活はおおむね穏やかに過ごすことが出来たが、ただ安史の乱に乗じてその守備の手薄になったのをねらってチベットの攻撃があったり、又節度使の陣の内輪もめなどで四川省内の交通は不自由となり、杜甫は故郷中原への帰路を往路の蜀の桟道ではなく、長江を下って、途中から陸路の襄陽に転じ中原に向かうと言う考えを抱くようになっていた。

 

2-(ⅲ) 春夜喜雨

さて,成都での作、 春夜喜雨に入ろう。

 春夜喜雨    春の夜に雨を喜ぶ

 好 雨 知 時 節  好雨 時節を知り

 當 春 乃 發 生  春に当たりて(すなわち)発生す

 随 風 潛 入 夜  風に随いて潜かに夜に入り

 潤 物 細 無 聲  物を潤し(うるお)細やかにして声無し

  野 徑 雲 倶 黒  野径 雲(とも)黒く

 江 船 火 獨 明  江船 火は独り明かなり

 曉 看 紅 濕 處  暁に紅の湿れる処を看れば

 花 重 錦 官 城  花は錦官城に重からん

語 釈

 1.時節…雨の降るべき時節。 2.発生…万物が生ずること  3.野径…野の    小道

 4.江船…川の上の船  5.火…いさり火 6.…錦官城…成都(四川省成都市)    の町
 通 釈

よい雨は,その降るべき時節を知っており、春になると降り出して、万物が萌えはじめる。雨は風につれて、ひそかに夜中まで降り続き、万物をこまやかに、音もたてずに潤している。野の小道も、たれこめる雲と同じように真っ黒であり、川に浮かぶ船のいさり火だけが明るく見える。夜明け方に、紅い湿った所を見たならば、それは錦官城に花がしっとりとぬれて咲いている姿なのだ。

                  (漢詩鑑賞事典・石川忠久編より)

成都での生活も2年を経て、落着きを増した上元2(761)年、春に此の“春夜喜雨”は作られた。  此の詩、一読して杜甫の心の安らぎを反映して落着いた情景の描写である。この情緒は何処から由来するのであろうか。首聯で春になってよき雨は降る時節をちゃんと知っていて、その雨は春になって万物(特に植物)の萌芽を促していることを以って詠い始めている。中国人が自然に対して持つ感覚は、四時循環に対する信頼である(中国の人たちだけに限らぬが)。その循環する造化と言うか自然を信じ、それに己を委ねる態度ないしは哲学、杜甫もとよりこの哲学の信奉者である。この心裡の反映として首聯の如き詠いぶりで始まったと思う。

3,4句の頷聯で捉えられている春雨の様子、これを(ひそ)やかに言い、(こま)やかに言い、春雨のしっとりと降る特徴がよく表現されている。

頚聯は全てのものが夜のしじまの真っ暗のなか、江船の漁り火だけが明るい。杜甫はその漁り火をじっと凝視しているのである。因みに頷聯は聴覚で捉え、頚聯は視覚で捉えられた情景である。そして脳裏に油然(ゆぜん)として湧き起こる連想、それは尾聯で、暁光に輝く紅を提示し次いでその紅は錦官城を(いろど)る花なのだと言うのでる。恰もスローーションの動画を見るが如く錦官城の雨に湿った花房の姿が迫ってくるのである。

いつ読んでも此の「春夜喜雨」は心が潤うような良い詩であると思う。

もうひとつ同じ春に作られた“江亭”は

 水流れて心は競わず

 雲は在りて意倶に遅し  寂寂(せきせき)として春(まさ)()れんとし 

  欣欣(きんきん)として(もの)(みずか)(わたくし)

 と頷聯・頚聯で詠っている。

 すなわち水の流れるままに心も流れて、水と争うことはない。

 雲がゆったりと浮かんでいるように,自分の気持ちもゆったりとしている。いま、春は音もなく暮れてゆこうとしており、物はみなよろこばしげにめいめいの生活を遂げつつある。

                       (杜甫・目加田 誠 著より)

 この頚聯7句目の“物自から私す”―すなわち物は自己を充分に展開しているとの意味である―この言葉に杜甫の哲学が籠められている。此の詩、杜甫の心の安らぎを写して、好きな詩である。

 以上、杜甫の詩3首を鑑賞すると共に、小生自身の考えも聊か述べさせて頂いた。
 引用及び参考とさせて頂いた先賢の諸先生に対し甚深の謝意を呈するものである。

-おわりに-

 以上,杜甫の48歳の棄官という運命の転換点を含む、6年間の杜甫の行跡とその詩,月夜.石壕吏・春夜喜雨の3首を中心に据えてその間に遺された他の詩も交えて、杜甫の思想と行動を垣間見て来た。

 ここで何故に小生が杜甫を読むようになったかを少し説明しておき度い。

 高校1年の春、昭和27年、吉川幸次郎の“新唐詩選”が発刊され、次いで昭和29年、高3のとき“新唐詩選読篇”が出された。この篇のなかの桑原武夫の“衛八処士に贈る”に心を惹かれた。“怡然 父のともを敬す・・・・一挙に十觴をかさね 十觴もまた酔わず。子が故意の長きに感ず”

この時、杜甫48歳、読んでいて大人の世界を垣間見る思いがすると共に、自分も大人なったら友人とこの様な交わりをすることが出来るだろうかと憧れに近い気持ちを抱いたのを覚えている。

 その後、吉川幸次郎の“杜甫ノート”や“杜甫詩注”を好んで読むようになった。そして杜甫の人間としての誠実な生き方、苦境にあっても一貫して自己を貫く態度を保持した事など、杜甫の行き方に共感できるものがあった。

 好きな詩人は誰かと問われれば杜甫と答える。杜甫を学んで、未だまだ浅学の身であるが杜甫との出遭いは人生の僥倖であったと感じている。

 因みに過年、小生は予ねてよりの憧れであった成都の杜甫の浣花草堂を訪ね、杜甫が植えたであろう松の子孫や浣花渓の畔の修竹(四川省特産のすらりと伸びた竹)の道を辿り、草堂の近くにある諸葛孔明を祠った武侯祠も併せて参詣した。この時のスケッチを五言律詩にまとめた。

 
               

                 今に残る杜甫の生家:浣花草堂           
    遊成都  成都に遊ぶ
   

  草 堂 花 径 杳   草堂 花径くらく

  松 影 旅 懐 深   松影 旅懐深し

  修 竹 飛 玄 燕   修竹に玄燕飛び

   渓 游 白 禽   清渓に白禽游ぶ

  濟 民 工 部 志   済民は工部の志

  經 世 武 侯 心   経世は武侯の心

  謹 拜 雙 公 廟   謹んで拝す双公の廟

  低 徊 蜀 相 吟   低徊して蜀相吟ず

 工部は成都時代の杜甫が、検校工部員外郎に任じられたこと、また蜀相は諸葛孔明のこと。杜甫は孔明が誠心誠意、君のために身を奉げたその人と()りを敬慕し、蜀相の名詩を生んだ。

               以上

 引用図書

 1.漢詩鑑賞事典  石川忠久 編 講談社学術文庫
   2.杜甫―詩と生涯 (ふう)() 著  橋川時雄 訳 筑摩叢書243
  3.杜詩詳注  杜甫著(清)仇兆鰲 注 中国古典基本叢書  中華書局
  4.杜甫 上・下  黒川洋一 注 岩波中国詩人選910
  5.杜甫  鈴木修次著 清水書院
  6.杜甫  目加田 誠 注 小学館 漢詩選・9

参考図書 

1.杜詩講義13   森 槐南 著 松岡秀明校訂 平凡社東洋文庫 

2.杜甫ノート  吉川幸次郎 著 新潮社

3.新唐詩選   吉川幸次郎 三好達治  岩波新書

4.新唐詩選読篇 吉川幸次郎 桑原武夫  岩波新書

 私の好きなの漢詩   
第3回は全漢連常務理事
岡崎 満義氏にお願いしました
 

      「私の好きな漢詩」      

      全日本漢詩連盟常務理事  岡崎 満義

               孟浩然「春暁」への思い

 私の漢詩初体験は吉川幸次郎・三好達治著「新唐詩選」である。奥付を見ると「1952年8月10日第1刷発行」とある。その2年後に吉川幸次郎・桑原武夫著「新唐詩選続編」が刊行されている。この2冊は大学時代に読んだ。1960年社会人になってから、井伏鱒二著「厄除け詩集」を読んでとりになった。手元にある「厄除け詩集」(筑摩書房刊)は昭和52年7月の発行となっているが、現代文学全集の井伏鱒二集の中に抄録されたものを、昭和40年前に読んだような気がする。その自在な訳詩に心を奪われた。その頃、天才・寺山修司が于武陵の

勧 酒

勧君金屈卮

満酌不須辞

花発多風雨

人生足別離

の井伏訳

     コノサカズキヲ受ケテクレ

     ドウゾナミナミツガシテオクレ

     ハナニアラシノタトヘモアルゾ  

     「サヨナラ」ダケガ人生ダ

をしばしばそのエッセイに引用していたのも,強く印象に残った。

 かくして「厄除け詩集」は私の愛読書となった。 その頃,東外大の客員教授でNHKラジオの中国語講座に出演していた林暁容先生が市ヶ谷の自宅で少人数の「中国語之家」を開き,私も週1回通ってい
た。北京育ちの林先生の発音はまるで音楽を聞いているようだった。教科書の第1科「北京」の冒頭の文章 - - - 北京是中国的首都,世界上最大的城市之一 ・・・ という何でもない文章が林先生の凜とした声で読み始められると,たちまち美しい音楽と化した。私は「厄除け詩集」の17首を原詩・訳詩とも手帳に写し,通勤の途中で暗誦した。

          春 暁

      春眠不覚暁  chun  mian  bu  jue  xiao

      処処聞啼鳥    chu  chu  wen  ti  niao

      夜来風雨声    ye  lai  feng  yu  shang

      花落知多少    hua  luo  zhi  duo  shao

             ハルノネザメノウツツデ聞ケバ

        トリノナクネデ目ガサメマシタ

        ヨルノアラシニ雨マジリ

        散ツタ木ノ花イカホドバカリ

 

 1980年4月にスポーツ総合誌「ナンバー」の創刊編集長になった。その頃,まだ日本にはスポーツのカラー写真はなかった。アメリカの最大発行部数を誇る週刊誌「スポーツ・イラストレイテッド」と提携したのは,中に使われている美しいカラーのスポーツ写真がほしかったからだ。この雑誌のいいところはスポーツの核としての遊び心をさまざまな形で誌面化しているところだ。そのひとつが毎年1回,初夏のころの水着特集である。とびきりの美女モデルを10人ばかり南の島に連れて行き,そこで水着姿を撮影していた。「ナンバー」でもそのカラー写真を使いたいと思い,特集を組んだのだが,さて困ったのは写真説明である。アメリカの美人モデルの名前や水着の素材・値段を書いても仕方がない。思案投げ首,考えても考えても妙案は浮かばない。せっぱ詰まってついに漢詩に手を伸ばした。「厄除け詩集」にならって,1ページに1首の漢詩と自己流の戯訳をつけることにした。デザイナーに話すと,はじめはびっくりしていたが「美女と漢詩なんて縁もゆかりもないけど,北極星と南十字星が隣に並ぶようで,突拍子もないところが却って面白いかもしれない」と賛成してくれた。

 No.1美女を表紙にして,そこに孟浩然の「春暁」を添え,私の戯訳をつけた。

   アノコハ夢色眠リ色

   鳥ノ鳴クヨニ愛ラシイ

   夜ノアラシヤ落花ノウレイ

   知ルヤ知ラズヤイマ夢ノ中

 昨年,全漢詩連10周年記念で漢詩Tシャツを企画したとき,胸に石川忠久会長の筆で「春暁」を書いてもらったのも,そんな「春暁」詩への思いがあったのかもしれない.

                              (終わり)

 

私の好きなの漢詩   
第2回は全漢連常務理事
住田 笛雄氏にお願いしました
 

                                 私の好きな漢詩   

                                     常務理事 住田 笛雄

 

 ご存知の方も多々おられる通り、小生は無類の酒好きである。従って、「私の好きな漢詩」となれば、酒を詠った詩となる。

 杜甫は、「飲中八仙」の中で、李白一斗詩百篇、と詠ったが、小生、酒に関しては李白にひけをとらぬと思っているが、詩の方はさっぱりだから、さしずめ篪軒一斗詩一篇、であろうか。(ちなみに、江戸の庶民は杜甫の詩を読んでいて、川柳に、李太白 一合ごとに詩を作り、と読んでいる。江戸の文化の高さは恐れ入る)

 さて、酒の詩となれば先ず陶淵明の飲酒(20首)を挙げねばなるまい。

その序が真に良い。曰く「余閑居して歓び寡なく、兼ねて此ろ夜已に長し。偶たま名酒あり、夕べとして飲まざる無し。影を顧みて独り尽くし(*)、忽焉として復た酔う。既に酔うの後は、輒ち数句を題して自ら娯む。紙墨遂に多く、辞に詮次無し。聊か故人に命じて之を書せしめ、以って歓笑と為さん爾。」
と。小生も本当に、毎晩、なんで酒はこんなにうまいのか、と感じ入っている。

 其の五、「廬を結んで」、はあまりに有名。そこで、ここでは、私の好きな他の一首、其の十四をご紹介したい。

   故人賞我趣  故人 我が趣を賞し      (*)李白の月下独酌は、

   挈壺相與至  壺を挈げて相与に至る        ここから着想を得た

   班荊坐松下  荊を班いて松下に坐し        ものであろうか

   数斟已復酔  数斟 已に復た酔う

   父老雑乱言  父老 雑乱して言い

   觴酌失行次  觴酌 行次を失う

   不覚知有我  覚えず 我有るを知るを

   安知物為貴  安んぞ物を貴しと為すを知らんや

   悠悠迷処留  悠悠 留まる処に迷う

   酒中有深味  酒中に深味有り

 酒は独り酌むもよし、良き友あれば更に好し。真に、酒にこそ人生の深い味わいがある、と。満腔の賛意を表したい。

 もう一首、「止酒」。此れも大好きである。

   居止次城邑  居は城邑に次るを止め    住まいは町から村に出て

   逍遥自閑止  逍遥 自から閑止す     ぶらりぶらりと長閑に暮らす

   坐止高蔭下  坐して高蔭の下に止まり   坐するは高樹の蔭の下

   歩止蓽門裏  歩みて蓽門の裏に止まる   歩むは柴戸の裡ばかり

   好味止園葵  好味は園葵にのみ止め    好むは畑の青菜のみ

   大懽止稚子  大懽は止だ稚子のみ     大なる喜びは只だ子宝

   平生不止酒  平生 酒を止めず      今まで酒を止めざるは

   止酒情無喜  酒止むれば情喜ぶ無し    止めれば楽しみ無いからで

   暮止不安寝  暮に止むれば安寝せず    夕方止めればい寝られず

   晨止不能起  晨に止めむれば起る能わず  朝止めたれば起きられぬ

   日日欲止之  日日之を止めんと欲するも  今日こそ止めんと思へども

   営衛止不理  営衛 止むれば理まらず   止めると調子が狂うのだ

   徒知止不樂  徒だ知る止むれば樂しから  止めたら楽しみ無きも知るざるを

   未信止利己  未だ信ぜず止むれば     止めたら体に良い等と己れを利するとはとても 
                        信じちゃおられな い

   始覚止為善  始めて覚ゆ止むるの善為るを 所が初めて止めたら良いかと覚り出し

   今朝真止矣  今朝真に止めたり      今朝 本当に止めてみた

   従此一止去  此れより一に止め去りて   これから一気に止め続け

   将止扶桑涘  将に扶桑の涘に止まらん   扶桑の仙境に行こうかな

   清顔止宿容  清顔 宿容を止むること   二日酔い無く素面になって

   奚止千万祀  奚んぞ止に千万祀のみならん 千万年より長生き出来よう

 全句に「止」の字を連ね、本気のようにも取れるが、さて?本音は始めからの十四句、最後の六句は、酒飲みの心理からすると、嘘をついて、己をからかっているように思えてならない。(和訳は僭越ながら小生の拙訳です)

 他にも酒に関する大好きな詩は多々あるが、何れ次の機会に譲ることとする。

                              以上

                                

 
 
 
私の好きなの漢詩   
初回は全漢連常務理事事務局長
菅原 満 氏にお願いしました
 

   私の好きな漢詩(その二)        杜甫「春望」

           國破山河在 国破れて山河在り

           城春草木深 城春にして草木深し

         感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ

         恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心驚かす

         烽火連三月 烽火 三月に連なり

         家書抵万金 家書 万金に抵たる

         白頭掻更短 白頭掻けば更に短く

         渾欲不勝簪 渾べて 簪に勝えざらんと欲す

 

石川忠久先生の『漢詩鑑賞事典』によると、下記のように解説されている。

至徳二(七五七)年、杜甫四十六歳、二年目を迎えた長安での幽閉中の作。杜甫の代表作として、誰一人知らぬものがないほどである。ことに、首聯は、古今の絶唱といわれる。やれ滅びたの興ったのと人の世は転変するが、自然の山や川は少しも変わらない。また。草木も春が来れば、ちゃんと葉が茂り花が咲く。そこが悲しいのだ。当時、人口二百万人、世界最大の都市を誇った長安も、今は瓦礫と化してぺんぺん草が茂っている。頷聯は、時世を悲しみ(公)、家族や友との別れを恨み(私)、頸聯は、戦争がやまないこと(公)、手紙が来ないこと(私)を詠って、尾聯では、肉体が衰え(私)、宮仕え出来そうにない(公)と結ぶ。公私の二本の柱が撚り合わさって構成されているというのも。杜甫らしい。

私の故郷は宮城県であるが、県境の岩手県の高館義経堂に芭蕉の句碑がある。

   夏草や兵どもが夢のあと

松尾芭蕉は杜甫の詩集を何時も携えて旅を詩とことは良く知られることだが、『奥の細道』の平泉の項の冒頭に、「国破れて山河在り、城春にして草青みたりと、笠打敷きて時の移るまで泪を落とし侍りぬ」、とあるところから、やはり杜甫の「春望」の詩の意識が動いていたものと思われる。「国破山河在」の感慨が、「兵どもが夢のあと」に尾を引いていると思われる。
 また、この句は、高館覧古として、藤原泰衡らが衣川で、源義経を打ちやぶった故事・古跡があるが、そこもいまは草叢になっている。上述の杜甫「春望」の「国破山河在 城春草木深: 国破れて山河在り 城春にして草木深し」と謳いながら、笠打ち敷いて時の移るまで、涙を落したと記載されている。
また、船を下り徒歩での奥の細道のスタートとなった千住大橋畔にも芭蕉の句碑がある。

行く春や鳥啼き魚の目に泪

 これも、『奥の細道』の出立の項で、「前途三千里の思い胸にふたがりて、幻の巷に離別の泪を注ぐ」という分に続く。この句は、千住の離別の句で、前途三千里の思い胸に塞がって、幻の巷に離別の涙が注ぐ、そのような沈痛な気魄の俳句と相俟って、杜甫の「春望」の「感時花濺涙 恨別鳥驚心:時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心驚か
す」の沈鬱に唆されるところが少なくない。

芭蕉の奥の細道を辿りながら、旅をし、漢詩を作り、俳句を作るのが私の願いである。
芭蕉と杜甫と故郷を繋ぐ哀愁のたまらない思いの接点がこの杜甫の「春望」にある。残念ながら、未だ完成の域に達し得てない。何時のときか完成してみたいものである。

 

 
        私の好きな漢詩(その一)    

      金子清超師 「無声無臭」詩四首
 私の詩書の師である金子清超師の「無声無臭」の詩四首である。
  金子静修氏、柳田誼軒氏と三人で主宰している書道漢詩研究会として、「無声会」があるが、この「無声」の命名の元となった詩である。この「声(おと)もなく臭(か)もなく」という境地に少しでも近づけられたら、という気持ちが、発足したときの気持ちでで、未だその域に達しないまでも何時も胸の中にある言葉である。

  以下の文章は、清超師の詩集『石火』、『清真』に記載された言葉をそのまま引用させて頂い
た。

 

   ①金子清超師石火:偶成二首;昭和二十六年        

                   其一

無声無臭處   声(おと)も無く臭(か)も無き処
萬有自斯生   万有 斯れ自り生ず

此境眞難到   此の境 真に到り難し

如何妄念萌   如何ぞ妄念の萌すを

                  其二

雖滅盡前念       前念を滅尽すと雖も

如何後念生       後念の生ずるを如何せん

那邊眞境在       辺に真

無臭又無聲      
                 

中庸の末尾に、「上天の載は声も無く臭(か)も無く」とあるが、鄭玄の注によれば、「載は読んで栽という、物を生むを謂う也」とある。またいう「上天の万物を造生するや、人は其の声を聞くこと無く、また其の臭を知る者無し」無声無臭の処を万有発生のもととして静坐弁道しようとするのだが、如何ともする事あたわずなのだ。鳶は広い青空に舞い、魚は深い淵に躍る活発な状態を見るにつけ、人が名題に囚われて不自由になるのは、いったいどうしたことだろう。

②金子清超師『石火』:空:昭和二十七年

  無聲又無臭        声も無く又た臭も無

一氣萬方通      一気 万方に通ず

  凝結成吾體        凝結して吾体を成す

    放斯都是空         斯を放てば都て是れ空な

人の体は地・水・火・風の四大種によって成り立つ、と仏者は説いている。肉は地、血は水に、体温は火に、気息は風に属するところの結合体は生・老・病・死の四苦をえて「空」に帰するのだが、其の空なるものは一体何であろう。万象は一気(万物の空気)より生まれてくることは肯定できるとしても、「空」とは果たして何か。更に自身に存在は「実」なのか、「空」なのか。「空」であったら、飯を喰う筈がない。とすれば、正に「実」なのだ。「空」を追って果てしもなく空が広がっていく。こんな終極を求めていたら、腹の虫がクーツと大きくうなった

    ③金子清超師『清真」:無門:昭和三十九年

     如何書法訣       如何書法訣 

      斯道入無門       斯の道は入るに門無し

   洞察心機化       心機の化を洞察し

      無聲無臭聞       声も無く臭も無きに聞け

用筆の研究においては、多年にわたり苦労を重ねてきたが、年をとるに従って、自分の拙さが一段と目に付いてくる。西遊記の三蔵法師は天竺へ経文を取りにいき、霊鷺山の麓にある凌雲の渡しで底の無い船に乗っておぼれ、凡胎を離れて雷音寺に赴き、経巻を授かるのであるが、其のためには八十回の難に遭い、更に八十一回の難を経て唐土に帰ったのである。書道もまた其の境に入るには、書法や書論に没頭することは、道に入るの門であると考える。誤って昨日の是を今日まで固執して、揮毫したとしたならば、たった今の創作とはならない。創作は旧を脱して今に活きるものであるからだ。己の懐抱を自然のうちに託して筆をとるならば、新たなる筆意は生まれてくる。其のところに門は無いはずである。

  
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