(2009年02月15日)

同塵舎詩話J

起・承・転・結に就いてその五

第23回国民文化祭・いばらき
2008文芸祭漢詩特別賞作品より

全漢詩連常務理事  窪寺貫道

 今回は、表題の特別賞作品十四首の中から、何首か選んで、起・承・転・結の観点から述べることにする。

 実は、今回の「漢詩大会」では、審査員選評を仰せ付かり、数首の特別賞作品に就いて感じたことを述べたが、切り口を変えて話を進めたい。

 但し、其の時の話と重複することがあろうかと懸念するが、大会に出席された方は何卒ご容赦頂きたい。

逆転満塁ホームランの趣き

 先ず、文部科学大臣賞の大阪府吉野廣洲さんの詩を見よう。

   花下閑詠   花下閑詠
正是春光爛漫時 正に是れ春光 爛漫の時
萬櫻夾水蔭長陂 万桜 水を夾[はさ]み 長陂[ちょうは]を蔭[おお]
中流上下多遊舫 中流 上下 遊舫[ゆうほう]多し
只載笙歌不載詩 只だ笙歌[しょうか]を載せ 詩を載せず

 この詩は、起句で春が酣であるが、承句では具体的に何処で、どの様に酣かを詠じた。そして、恐らく作者は長陂に在って、水の流れを見ている。水の上には遊覧船が多数行き交っているというのが転句で、各々の句の役割を十分に果している。

 さて、此のように見た景を詠じたのであるが、結句は視覚ではなく、笙歌の音を聞くという聴覚を表現した。此処までは特に優れた詠じ方ではないが、其の下の三字が素晴らしい。野球で言えば、逆転満塁ホームランの趣きがある。

 即ち、笙歌で賑やかに盛上がっているが、詩を作る風流な客は乗ってはいるまいと、見えないもの、聞えないもの、換言すれば視・聴覚以外のものを結句の下三字に入れた。これが洵に上手い。

 蛇足だが、仮に卮(さかずき)も載せていると詠ずると詩はぶち壊しになる。

 次は、茨城県知事賞の茨城県山田穐香さんの詩。

     看月  月を看る
新秋氣滿山家 新秋の気[こうき] 山家に満ち
最好爐邊獨喫茶 最も好し炉辺 独り茶を喫するを
窗外風寒月光下 窓外風寒く 月光の下
幽香漂處一叢花 幽香漂う処 一叢の花

 起句で新秋の清らかな気配が作者の家に満ちているという舞台装置を設定しておき、承句で其の舞台で独り茶を飲むのが最高の愉しみであると、心が満たされている様を詠じた。

 ところが外は寒い風が吹き、月光が冴えかえっていると一転して視覚を転句に用いた。此処で何故「窓外風寒」を出したのか、結句の伏線である。

 結句は、月光に誘われて、香が何処から来たかを探ったのであるが、窓を開けなければ、あるいは戸外へ出なければ、香の有るのは分からない。

 そして、此の詩の全体から受ける印象は、作者の清浄平静な心象風景でもあろう。

 三首目は、茨城県教育委員会教育長賞の福岡県平兮宗賢さんの詩である。

   春夜讀書 春夜読書
松頭月白晩風C 松頭 月白く 晩風清らかに
兀坐芸窗過二更 [うん]窓に兀坐[こうざ]して二更を過ぎる
瓶裏装春好文木 瓶裏 春を装う好文木
恰如聽我讀書聲 恰も我が読書の声を聴くが如し

 これは洒落た詩である。起句で庭に挂った皓月と清らかな風(此の「清」が詩全体の雰囲気作りに効果を挙げている)、承句は室内の作者自身の姿を演出した。

 転句は、その室内に花の咲いた梅の枝を挿した花瓶があるという景を設定したが、結句を導き出すソツの無さが見られる。

 此の様に伏線を置いて、結句で作者が本を読んでいる声を梅が聴いているようだと結んだ。常識的には梅が本を読む声を聴くわけではないが、梅の異称が「好文木」、つまり「文を好む木」だからだよとしたのである。(好文木は晉の武帝の故事に出た語)

女性に代って作った詩

 四首目は国民文化祭水戸市実行委員会長賞の愛知県郷治頭風さんの詩である。

    春雨偶得 春雨に偶ま得たり
攬鏡?妝將待誰 鏡を攬り?妝将に誰を待たんとす
霏微暮雨倚窗時 霏微たる暮雨 窓に倚る時
邀郎同傘巷燈路 郎を邀え同傘す 巷灯の路
甘澤豈惟沾痩枝 甘沢豈惟だ痩枝を沾すのみならんや

 この詩は、男性が女性に代って作った詩であるが、中国では昔からの常套的な手法である。自分のことを詠ずるわけではないから、大胆に言うことが出来る。

 起・承句は美しく化粧をした若い女性が雨の降り出した窓辺で、約束でもしたのか相手の男性が来るのを待っている。

 転句は待ち人と相合傘で紅灯の巷へ出掛けるが、結句は此の雨は春の草木を濶すだけではあるまいと、謎掛けで終わっている。

 次は、全日本漢詩連盟会長賞の神奈川県酒井謙太郎さんの詩である。

   櫻花頌 桜花頌
誰ヘ山野發香葩 誰か山野をして香葩[こうは]を発[ひら]かしむ
郭北郭南花又花 郭北 郭南 花又た花
三月旬餘抛世累 三月旬余 世累[せるい]を抛[なげう]
田夫吾亦醉流霞 田夫吾も亦た 流霞に酔わん

 起句は、とぼけた調子で始めた。春がやって来て山野に花が一斉に咲くのは誰もが知っているにも拘らず、「一体誰が花を咲かせたんだ」とした。これが、此の詩全体に良く利いている。

 承句は何処で花が咲いているかを詠じたが。「郭北」「郭南」、そして「花又花」が絶妙である。これを「爛漫紅桜満地花」とすると単なる説明に過ぎず、何の感銘も与えない。

 続く転句は作者の態度である。花の時期の十日余りは仕事も何も手がつかないと、甚だオーバーな表現をした後で、田舎親父の我輩もこの時だけは仙人になるのさと結んだ。

 流霞は仙人の飲み物でもあるし、桜の咲いた景は霞(朝やけ夕やけ)のようだと。霞を二重に使った。

 以上、紙面の都合で駆け足で五首しか採り上げることが出来なかったが、各々の詩の起・承・転・結を参考にされたいと念ずる。