(2010年08月15日)

同塵舎詩話P

起・承・転・結に就いてその十一

今回も小学六年生の作った一首を考察する           

全漢詩連常務理事  窪寺貫道

 今回も筆者の許に投稿された小学生の詩の添削例を参考に、起・承・転・結の話をしたい。作者はM・Oさん(女性)で、前回の例として採り上げた詩と同じ小学生である。

     春
春光滿地水邉頭 春光地に満ち 水辺[すいへん]の頭[ほとり]
細柳如絲一葉浮 細柳糸の如く 一葉浮かぶ
緑樹成陰花萬片 緑樹陰[かげ]を成し 花万片
紅雲紅雨映C流 紅雲紅雨 清流に映ず

 春の日の川辺の景を詠じた詩である。脚韻は下平声十一尤、平仄も整然として、起・承・転・結も一応その役目を果し、詠じたいことも分るが、幾つかの問題点を列記する。

(一) 起句は、春の光が「地に満ちている」其の「水辺の頭」に承句の柳があると続けたいのであろうが、此処には二つ問題点がある。一つは「満地」「水辺」の場所が続けて二つも出てくること。もう一つは「辺」「頭」の重複である。

(二) 承句の「細い柳」と、それが「糸のようだ」は同じことで、これも重複である。そして、「葉が一枚浮んでいる」ということだが、何の葉(柳の葉と推察されるが)か曖昧な上、何処に浮んでいるのか分からない。つまり、此の句は上四字と下三字のつながりが悪い。

(三) 転句は、「緑の木々が陰を作っている」だが、題は「春」だから、未だ木の陰、つまり緑陰が出来ているだろうか。更には、承句で柳の枝が糸のようだと言っていることと季節的に矛盾する。又、下三字は「花片が万もある」だが、何の花片か分からないし、何で万片になっているのか不明である。

(四) 結句は一目で分かるように「紅」を二回使っている。一般的に畳字を除き、同じ字を一首の中に複数回使用することを、筆者は初心者には禁じている。複数回使用することにより、詩が一層面白くなる例は枚挙に暇が無いが、初心者にとって、これは至難の技であるから禁止している。逆に、複数回使って詩が面白くなったら、その作者は已に初心ではない。

 さて、話を此の句に戻すと「紅い雲」「紅い雨」とは一体何か。恐らくは、転句の「花萬片」「花」「紅雲」と、風が起って(風が伏線として無いのは不可)「花萬片」「萬片」の飛花、つまり「紅い雨」が降っているようだと言いたいのであろうが、良く分からない。そして、それらが「清らかな流れに映じている」と言うのだが、この結句は転句からの連絡が悪い。

 詩には飛躍はあって良いが、断絶は不可ない。つまり、前の句とのつながりで「紅雲紅雨」が唐突なのである。但し、結句だけ見れば「紅」を二回使って、仲々面白い味を出した。

 其処で、右の問題点を修正して、次のように添削した。(字の右側に傍線をつけた処が添削箇所である)

      春
春光燦燦碧川頭 春光燦々 碧川の頭[ほとり]
新翠如絲柳眼柔 新翠糸の如く 柳眼柔らかなり
又見紅櫻花萬朶 又た見る紅桜 花 万朶
香雲一望映C流 香雲一望 清流に映ず

 (一)の起句は、春の光が、「燦燦」と照らしているとすれば「満地」を消すことが出来る。又、下三字を「碧川頭」とすることにより「邉」「頭」の重複を避け、同時に「碧川」を結句の「C流」の伏線とした。

 (二)の承句は、「細柳如絲」「細」「絲」の重複を嫌い、更に下の「一葉浮」が、どういうことなのか分からない為、右のように直した。こうすることにより、上の四字と下の三字が自然につながり、川べの柳の芽ぶきが見られて、起句に対する承句の役割りも十分果していると言えよう。

 (三)の転句であるが、前述の問題点を解消する為に大改造をした。五字目の「花」が何の花かを言わねばならない。梅か桜か又は桃かはっきりさせる必要がある。

 其処で、春を代表する花は、日本では桜であるから「紅桜」とした。そして、桜の花びらを言う「花片」では結句につながらないので、「えだ」つまり仄字の「朶」にした。

 又、此処までの三句では、起句に「碧」、承句に「翠」、転句で「紅」の三色を配し、視覚的に詩を綺麗にしたのは言うまでもない。尚、この転句の一番上の字の「又」は、起・承句で、春の光の中の川べと、其処に生えている柳を己に見ているが、場面の転換を図る転句でも見る景だから、「その上また見る」という気持の「又」である。

 (四)の結句の「紅雨」は前述の通り、風が吹かなければ花は散らないが、風を入れる余地が無いので止むを得ず削った。そして、「紅」は已に使ったので「香」に変えた。

 因に、桜には香が無いと言われるが、─染井吉野には香が無い─「万里香」という桜には名前の通り香りがある由。又、頼山陽の「母を奉じて嵐山に遊ぶ」という詩の結句に「連夜香雲暖かき処に眠る」とあり、更に辞書の「香雲」を見ると、「かんばしい雲。花のさいたさま。」とある。

 従って、右の添削後の結句は、(桜)の花が一面に咲いているのを見わたすと、それが清流に映っている。」として春の景色を纏めた。

 前回の詩に比較して添削の箇所が殖えたが、作者が小学生であることを考えると止むを得ない処であるし、詩はこの様に作るという手引きになれば良いと考える。

 さて、起・承・転・結の本題から外れるが、前回のM・Oさんの詩の添削に就いて、福井県の一会員から興味ある書面を頂いた。

 小学生の詩であるにもかかわらず、起句で「曵杖」とあるが、これでは老人の詩になってしまうので、小学生の詩ではなくなるという指摘である。

 この詩を読み、他にも同じような疑問を持った会員が居られると不可ないので、丁度良い機会なので、漢詩とはどういうものかを説明しておこう。この説明の前に、正岡子規の満十一歳の時の詩を紹介しよう。因に、偶然だが、M・Oさんも同年齢である。

    聞子規  子規を聞く 
一聲孤月下 一声 孤月の下
啼血不堪聞 血に啼いて聞くに堪えず
半夜空●枕 半夜 空しく枕を●つ
古ク萬里雲 古郷 万里の雲

 これは後年、子規自身が編んだ。『漢詩稿』冒頭の詩である。「古ク」は見慣れない語の上、「郷」が孤平になっているのがご愛敬であるにしても、十一歳の少年の詩としては堂々たるものである。

 このように大人顔負けの詩で子供らしさがないのが漢詩独特の表現法である。先の詩に戻ると「曵杖」「散歩をする」という程度の表現で、必ずしも「杖に頼って歩く」という老人に限った言い方ではない。漢詩特有の表現方法では、例えば「非常に悲しい」ことを「断腸」と言うが、実際に腸[はらわた]が切断されるわけではない。

 こういう例は甚だ多いから瞞されては不可ない。漢詩は、説明や理屈ではなく、サラッと素直に作ることが肝要である。理屈を言っているうちは良い詩を作る事は不可能なのである。