(2005年04月01日)

《インタビュー》
漢詩の真実を求めてきょうも旅ゆく

全日本漢詩連盟会長 石川忠久(聞き手)岡崎満義

─ 大学のほかに、講演が多いですね。

石川 毎年、何十回か、そう、30回位でしょうかね。たてこむときは、月に6〜7回やったことはありますが、ならすと月2、3回、年40回まででしょう。

─ それも全国を飛び回る強行軍、健康の秘訣は何ですか。

石川 よく聞かれるんだけれど、タチが楽天的なんですかね。父は99歳、おふくろが92歳まで生きましたから、DNAはいいんです。それに、私はどこでも寝られること。何でも食べられること。電車にのっても、時間の使い方がとてもうまいです。寝たり、モノを書いたり、本読んだりね。苦にならない。若いときからそうでした。枕が変わると寝られない、という人がよくいますが、全然平気。お酒も飲むけど、たくさんは飲まない。病気もあまりしません。好きなことをやってるものだから、精神衛生にもいい。

─ 漢詩集「長安好日」の巻末についている年譜を見ると、少年の頃、終戦前後、中国で随分苦労されています。あの頃を生き抜いたことが、その後の人生の大きな自信になっているように見えます。

石川 そうかもしれないな。中学生にしては過酷な労働をしました。体は小さかったのに、大人並みの労働、そのかわり給料も大人並みにもらいましたが、えらい苦労をしました。われながらよく耐えぬいて、撫順から帰ってきたものだと思います。その頃の記憶は今も、生々しく残っています。国共内戦にもあっていて、市街戦で危ないこともありました。

そしてソ連軍が入ってきて、これがひどかった。クリカラモンモンの奴ばっかりで、暴行、強姦、泥棒、いたずらで狙い撃ちしたり、私も弾が耳を掠めたことがあった。母と弟と妹が一緒でしたから、私の給料と、母と弟が軍から配給でもらっていたメリケン粉でドーナツを作って売り、生活費にしました。丸10ヵ月、そんな暮らしでした。

やっと日本に帰ってみると、職業軍人だった父は先に帰っていました。関東軍の参謀だったのですが、多分、左遷されたのじゃないかと思うんですが、南支派遣軍でスワトウに行った。ところがそこは何の戦いもなく、楽だったようです。

─ 家族のほうが大変だったんですね。

石川 選択肢はあったのです。父が出征したのが昭和19年、その時内地に帰るか現地に留まるか。ところが内地も空襲がひどくなっていましたから、かえって危ないからやめようということになった。その頃のことは、よく夢に見ました。先がわからない。帰れないかもしれない、と思いました。昭和21年6月頃、何とか帰国船に乗れました。帰ったときほんとうに勉強したかった。勉強の機会がずっとなかったですからね。