(2005年04月01日)
インタビュー

『漢詩の真実を求めてきょうも旅ゆく』
全日本漢詩連盟会長 石川忠久 (聞き手)岡崎満義

楽しかった囲碁の竹陰会

─ 宇野先生とは古いお知り合いですか。

石川 ええ、学生時代に習ったこともあったし、実は囲碁の仲間でもあったんです。6人の仲間で碁の会をつくって、宇野先生が最長老でした。あと大正生まれが4人、昭和生まれの私が1人、と計6人でした。年四場所、相手が5人だから2局ずつ10局打って7勝3敗だと昇級する。3勝7敗で降級するというルールまでつくってね、優勝カップもありました。

これは、30年以上つづいたんです。私が白楽天の詩から「竹陰会」と名付けました。ふだんは神田学士会館でやりましたが、学会などのときは携帯用碁盤を持参して、旅先でやったりしました。私の実力は6人の中では、下から2番目でした。でも4段です。優勝したこともありました。宇野先生と私の間には、年齢的に一代あいているんです。

読書会での先輩は戦争中に卒業しまして、戦後の混乱期に帰ってきた人たちで、古い漢学に強く反発していたから、斯文会なんか眼中になかった。その世代がポーンと抜けてしまった。私はこの道一筋の人間ですから、なんのこだわりもない。それで理事長職を引き受けたのです。

─ 先生は昭和44年から、斯文会で漢詩を講義されていますね。

石川 私は大学院の頃、東大受験のための指導の会に入っていたんです。そこで漢文の問題をつくっていた。その仲間がいて、NHKで通信高校講座の番組をはじめて、私に漢文をやってくれといったんです。その放送の評判はよかったようで、斯文会の方々が目をとめて、唐詩の講座をまかせられるようになったのです。

─ 先生にとって、ラジオ、テレビは大学というキャンパスを大きく越えた活動ともなったようですね。

石川 昭和40年から始まっていますから、もう40年間もやっていることになります。講演で地方へ行くと、随分ファンに会います。ラジオ、テレビが切れ目なく40年もつづいたのは、その世界の水に合っていたのかなあ。

─ テキストを作るのも大変でしょう。

石川 あれが大変なんです。企画から材料集めから全部自分でやらなきゃいけないんですから。弟子をあつめて、章ごとに下訳をしてもらって、それらに目を通して編集します。これがいい教育になっているんです。最初はあまりテキストも売れないだろう、と1万部でスタートしたんですが、すぐ増刷、今は12万部刷っています。

─ 二松学舎大学はもう15年ですか。

石川 そうですね。学長になって4年です。この大学は伝統がありましてね。ゼロからはじまった桜美林とは対照的です。そのかわり小回りがきかない。ガチッと伝統がある分だけ、融通がきかない。桜美林は自分の裁量でいくらでもできましたからね。

─ 少子化時代になって、大学経営もむずかしくなっていますね。後継者はありますか。

石川 むずかしいなあ。とにかく、漢詩を作る人が殆どいなくなった。この学校には23人いますけどね。どこまで身を入れてやっていますかね。いまや漢学の伝統を守っているのは二松学舎だけでしょう。東大、京大、筑波大、どこもないでしょう。早稲田も松浦友久という俊才が亡くなって、そのあとを古典の人でおぎなわない。その娘さんが私の読書会に入っていますけどね。

今、私は3つ読書会をもっているんです。一つは六朝時代、一つは唐の柳宗元、もう一つは漢詩をつくるもの。みんな若い人たちの集まりです。

─ いくつ体があっても足りませんね。

石川 それぞれは月に1回でも、毎週何かやっていることになります。3月で二松学舎をやめたあとは、COEの授業で、週1回江戸の漢詩を講義します。

─ 漢詩もさることながら、漢文も書ける人はどうですか。

石川 いません。さらにいません。文章のけいこは殆どやらないですからね。われわれの目が黒いうちにやらないと伝統が絶えてしまいます。こういうことをバカにした時代が長かったんですね。そんなことをやってどうするんだ、時代遅れも甚だしい、とね。日本の漢文学をキチンとやらないと、といったりすれば、一昔前はみんなに笑われたものですよ。

今、やっと、二松学舎のCOEがとれたり、少しずついい風が吹いてきています。なにしろ、「日本漢文学研究の世界的拠点」ですからね。こういういい風が吹いているときに、小学校にも出向いていって、漢詩の話をしたいと思っているんです。

全国を歩くことがふえると思います。“漢詩の達人”だけでなく、漢字文化振興会の方でもよく高校などに行っています。灘高、ラサール、麻布…話をすると、とても反応がいいです。的を射た質問がでてきます。