(2005年04月01日)

インタビュー

『漢詩の真実を求めてきょうも旅ゆく』

全日本漢詩連盟会長 石川忠久 (聞き手)岡崎満義

“オーラの人” 清水安三氏

─ 大学院のあと、いくつかの大学で教えて、桜美林大学へ行かれたのですか。

石川 桜美林は中文科を創るところから始まりましたからね。昭和40年からです。桜美林学園の創立者・清水安三、これがケタはずれの面白い人物でしてね、オーラが出てるんですよ。私があったときは、70代中ばでしたが、98まで生きた人です。この人は破れかぶれというか、大ボラは吹くし、何とも魅力のある人でした。その頃の桜美林は大学の態をなしてないので、ふつうなら飛び出すんですが、飛び出せないんですよ。何か、からめとられたようでしてね。

─ 清水安三という人の魅力はどんなところでしたか。

石川 今にして思うと、何か大きな希望、夢、をもっている人でした。その夢に説得性がありました。事実そうなってきている。一番驚いたのは、桜美林高校の野球部が甲子園で優勝したことですね。あれにはみんな驚きました。学園中が大湧きに沸きました。

─ あれで、桜美林の名前が全国に知れ渡りました。

石川 それまではしばしば、サクラミリンといわれてましたからね。とにかく清水安三という人はオーラの出ている、ケタはずれの人でした。私はいろんな大学からけっこういい条件で招かれたんですが、全部断ったんです。人はバカだ、と言ったけれど、移れなかったですよね。

─ そういう話を聞くと、教育はつまるところ、人ですね。

石川 ほんとうにそうです。人ですね。その頃、宇野精一先生から斯文会をやってくれないか、と言われたんです。同じころ、二松学舎に先輩(伊藤漱平氏)がいて、この人が急に学長になったんです。大学院のポストがあるから来ないか、と言ってくれた。ほとんどそれと同時に、宇野先生からの話がきたんです。桜美林だったら遠いので無理ですが、二松学舎なら湯島聖堂にも近いし、漢文の伝統もある、受けられるかな、と思ったんです。20数年もつとめた桜美林を辞める気持ちはさらさらなかったんですが、思わぬ急な展開になったのです。