(2005年04月01日)
インタビュー

漢詩の真実を求めてきょうも旅ゆく』
全日本漢詩連盟会長 石川忠久 (聞き手)岡崎満義

マンツーマンの漢詩学習

─ そして、都立戸山高校へ進学されました。漢詩はその頃からですね。

石川 帰って入った府立四中(戸山高校の前身)がとても漢文が盛んな学校でした。私の父もそこの卒業ですが、その頃は名物校長がいました。深井鑑一郎校長で、青鬼と仇名をつけられていたそうです。東大の古典講習科を明治時代に出た人で、校長を40年以上やった人です。この人が漢文に力を入れて、校風を作ったんですね。

戦後になると、漢文をやらない学校もたくさんありましたが、私の学校はキチンとやっていました。面白い漢文の先生もいて、漢文に興味をもちました。この頃から私はでたらめな漢詩を作り始めたのですが、どうせやるならちゃんとやりなさい、と先生がアドバイスしてくれて、紹介された白いアゴヒゲをはやした有名な老先生のところへ、習いに行くことになったのです。

─ マンツーマンの勉強ですか。

石川 そうです。むこうもヒマだったんでしょうな。一からの手ほどきをうけました。東大に入ってみたら、新中国一辺倒、毛沢東、魯迅ばかりです。もともと漢文が好きで入学したのですから、違和感がありました。私一人だけが古典の漢文で、白い目で見られました。あいつは変わっている、だけでなく危険分子と見られたようです。

しかし、大学の同窓会に行くと、昔の老先生たちが顔を揃えて、そのお話を聞くのが楽しみでした。老先生がたが学生の時の教授は、江戸の儒者ですよ。そういう話を聴きに来る若者は誰もいません。私だけ。これはトクしましたね。ありがたかった。今にして思えば、私が考えていたことのほうが正しい。漢字だってなくならないでしょう。漢文は大事だ、ということになってきている。その頃、漢文だなんて言おうものなら、こいつは時代錯誤だ、右翼だといわれた。

─ よく、そういう辛い時期をガマンされましたね。使命感ですか。

石川 使命感もあったけれど、何よりよい先輩に恵まれたことですね。10年位先輩、つまり戦争中に大学を出たくらいの年恰好の先輩です。私が演習のためにいろいろ調べていると、助手の人たちが頼みもしないのに助けてくれたりしました。助手は学生たちから爪はじきにされていたので、珍しく古典を勉強する私に親近感をもってくれたのでしょう。その人にひっぱられて、読書会にも行くようになりました。古典を読む会で、30年つづきました。これはとてもいい勉強になりました。

─ これが先生の基礎となったわけですね。

石川 もうひとつある。東京・関東地区の大学の若手研究者の会があったのです。土曜談話会といって、毎月第2土曜日に集まっていました。東大だけでなく、早、慶、教育大、日大、駒沢、大正大などに属している助手、大学院学生などの集まりで、これも30数年つづきました。それぞれ専門がちがうので、誰でも関心のもてるようなものを勉強しようと、四庫提要などをやりました。それぞれ勉強して発表したものを、ガリ版刷りにして出していました。

そのうちに文部省の科学研究費をもらえるようになって、夏、冬の休みに合宿に行ったりもしました。その頃は日本中が貧乏だったから、山小屋のようなところを利用しましたね。これは楽しかった。常連は15人位でした。だいたい大正生まれの人が中心で、昭和生まれの私などは末輩でした。あと入ってきたのは、私より数年下ぐらいまで止まり。それより下の若い人は入れなかった。というのは、その人たちは私たちを先生と呼ぶので、やめた。こういう会は、「さん」で呼べる範囲の仲間でないとよくないですからね。

─ 女性はいなかったんですか。

石川 そういえば、女性はいなかったなあ。

─ 漢文の世界に女性の研究者が出はじめたのは、最近のことですか。

石川 そうですね。ポチポチはいましたが……少なかった。日本中国学会の役員に女性がなったのが、ここ数年のことです。近代中国文学の方はいくらか多いが、古典のほうは本当に少なかった。