(2004年07月01日)
座談会『日本の漢詩はどこから来てどこに行くのか』
浅岡、石川、岡崎、金、窪寺、住田、中山、福原

戦後の日本漢詩界

岡崎 「座談会・昭和文学史」「漢詩と漢詩人」の項で、大岡信さんが「和歌や俳諧に対して、もう一つ大事なものが漢詩です。漢詩は思想を書くもので、日本の詩の骨格をつくっていた。漢詩の読み下し文のようなスタイルでつくるものが重要だったんですね。たとえば土井晩翠のような。明治期には漢詩人と和歌、俳諧の詩人の両方がいて、とくに漢詩人は非常に尊敬され、名声を博していたわけです。しかし普通の人が漢詩を読めなくなっていきますね。それで、和歌、俳諧が主流になった。正岡子規が出てくるのは、そういう時期です。だから、子規は漢詩、漢文も書きながら、同時に和歌、俳諧もやった」と話したあと、話は新体詩に移り、小森陽一さんが「詩に人生訓を求める欲望は、漢詩からの伝統としてあるのでしょうか」と問い、谷川俊太郎さんが「漢詩からの伝統はあるよね。僕もよく『この詩のメッセージはなんですか』と聞かれて困ってしまうことがある。『メッセージなんかないよ』と答えることが多いけど、詩にメッセージを求めるのは漢詩の血筋が残っているからですね。詩を一つの手工業品[フォーク・クラフト]のようにして味わってくれる態度が少ないんですと言うのを、また大岡さんが受けて「漢詩には、言葉そのものを大事にするという思想は主流としてはなかった。メッセージを伝えることは重要なんだけど、本体である言葉には目がいっていない。言葉について考え始めるのは、明治40年代の蒲原有明や薄田泣菫の頃からですね」と話しています。

石川忠久さん

石川 大岡さんの随筆を読んでいたら「なぜもっと漢詩文をやっておかなかったか、悔やまれる」と書いていましたね。

中山 大岡信「折々のうた」(朝日新聞)にもたまに和漢朗詠集などから漢詩がとられたことがありますね。

石川 文芸誌などでも、漢詩に触れた文章はあまりありません。

中山 金子光晴のエッセイを読んでいたら、漢詩の中の一字を抜いたところを埋める遊びをしたことを、書いてありました。

石川 それは日本では「韻ふたぎ」っていうんです。一字あいたところに、韻を合わせてふさいで遊ぶんです。

岡崎 昔はそういう風流な遊びがあったんですね。それが次第に忘れられて、漢詩がすっかり一般の人から縁遠いものになってきたんですね。たしかに私も長年、雑誌の編集をやってきたんですが、漢詩の企画を考えたことはありませんでした。

浅岡 たしか石川先生の書かれた本に、すべての新聞から漢詩欄が消えたのが大正6年(1917)とありました。

石川 ちょうど明治50年の時期なんです。

浅岡 これはかなり決定的でしたでしょうね。今、新聞雑誌で漢詩投稿欄をもっているのは月刊誌「大法輪」だけでしょう。

石川 太刀掛呂山先生から継いだ奥田魚銭先生が選者です。これは大事にしたいですね。

岡崎満義さん

岡崎 昨年3月に全日本漢詩連盟の旗上げをしたわけですが、そこに至るまでの戦後の漢詩界を俯瞰してほしいのですが…。

石川 私も十分に知識があるわけではないけれども、明治時代の少壮漢詩人といわれた人の多くは、第二次大戦までに亡くなっています。たとえば国分青香Aこの人は昭和18年か19年に89歳で亡くなっています。これが一つの象徴的な事件ですね。国分青高ヘ森槐南と競った、明治時代のすぐれた青年漢詩人だったわけです。森槐南はずっと早く亡くなっています。それからもう一人、在野の人で盛岡の有力な「随?」という雑誌を出していた上村売剣。この人も終戦の頃に、たしか伊豆で死んでいます。こうして、明治時代に少壮漢詩人として活躍した人はみんな終戦前後に亡くなっています。

岡崎 戦後はゼロからの出発…。

石川 いやいや、唯一残っていたのは名古屋の服部坦風先生です。全漢詩連副会長の服部承風さんのおじいさんです。それと東京には土屋竹雨先生を中心とする「東華」という雑誌がありました。福原さんも応募しておられましたね。

福原 「東華」は昭和3年から33年、205号まで続いたんです。私は195号に載せてもらいました。昭和28年に、野口英世の親友で野口英世記念館理事長の石塚三郎さんに、毎週土曜日にご指導をいただいていました。この石塚先生が、土屋竹雨先生に財政的に補助をしておられた。石塚さんの長女が堤康次郎さん(元衆議院議長)に嫁いでいます。土屋先生が亡くなられたあとは、鉄道省におられた井上舒庵[じょあん]先生が「東華」をひきついで「言永」という雑誌を出されたんです。これは35号まで、昭和52年まで続きました。

岡崎 国分、上村、土屋という三人の大立者が亡くなられたあとは…

石川 地方にはぽつぽつと漢詩人がいたらしいけれども、消息が伝わってこなくなった。だから、漢詩壇というものは、戦後はないといっていいでしょう。その中では「東華」を中心とするグループが一番大きい。いまちょっと話に出た井上舒庵[じょあん]という人が音頭取りをして、東大の卒業生で「裁錦会」を復活したのです。昭和40年代の半ば頃です。昭和の初め頃に途絶えていたのを復活したんですね。ここに土屋竹雨さんの弟子がたくさんいて、東京の中心みたいになりました。東大卒業生という狭いグループですけれど、そのころの漢詩の作り手はだいたい入っていました。安岡正篤さんなんかもメンバーでしたね。

福原豊弘さん

福原 例の阿藤伯海さんも、ちゃんと載っています。

石川 そんな風に大分変わってきたけれども、最後の最後、斉藤荊園[けいえん]という先生が棹尾を飾っています。それ以後はそういう指導的な人はおりません。私も「裁錦会」の末席を汚していたんです。荊園先生は明治30年頃の生まれで、最後の漢詩人といっていい人でしょう。昭和60年頃に亡くなられた。

岡崎 詩集も出されているんですか。

石川 ええ、出ています。私は持っています。四国の宇和島の人でしてね。宇和島には明治の頃、中野逍遥といういい青年漢詩人がいて、いまその碑も立っています。

中山 なにか恋愛詩のようなものをよく書いた人のようですね。

石川 そうですね。若くして死んでしまいました。斉藤荊園さんは、その同じ宇和島の人です。