(2008年05月10日)
宇多喜代子、中沢けい、石川忠久、岡崎満義

教科書「日本語」のよさ名付けたい、という意欲

岡崎 ちょっと飛びますが、型というものがあって、それは非常に大事だな、と思うのです。社会学の鶴見和子さんが1995年に脳溢血で倒れて救急治療室に連れて行かれたその日の夜から、60年ぶり位に短歌が突然口をついて出てきた。15歳の時にお父さんに連れられて佐々木信綱さんの所に入門して21歳で歌集を一つ作って以後は社会学・哲学の分野に移って一切短歌とは関係がなくなったのに、病気で倒れた途端に、出てきたのが、「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」というのだそうです。そのあと、ずーっとどんどん出てきた、と。これはやっていたのが現代自由詩だったとしたら、こういうことはなかったのでしょうね。鶴見さんは、歌が出てくることと自分の命の続くこととが同じだったと仰っています。

石川 それと同じなのは、夏目漱石ですね。漱石も一時やめたでしょう。留学して、英文学やって、ほぼ10年は全然漢詩を作らなかった。それが、病気してふわーっと突然出てきた。おんなじですね。漱石の場合は漢詩だったわけですが。

宇多 そうですね。俳句も若い時からやっている人は、自転車に乗るのや水泳と同じ。自転車は一度覚えるとずっと乗らなくても、子供の時乗れてたら乗れるのですね。水泳もそうですね。昔やってたらできるの。その中に俳句も入れられて。今若い人、特に小学生俳句がとても賑やかなのです。嬉しいことですね。そういう風なことで、馴染んでおくと年取ってから思い出してくれると思います。それは矢張り若い時に埋め込まれたからですね。そいう意味では漢詩でもわけも分からず覚えておくと出てくるでしょうね。小学唱歌がそうですものね。私みたいに物覚えが悪くても、早春賦などは全部言えるみたいに。訳がわからず、何の意味だろうと思いながら大人になりました。

岡崎 最近文部科学省がけしからん、という話を二つ聞きました。一つは村の鍛冶屋が音楽の教科書から無くなったんですね。今もう鍛冶屋がなくなったから消したということですが、無くなったからこそ残しておかなくては駄目ではないか、と。

中沢 鍛冶屋がないからけしたのですね。

岡崎 無くなったからもう残す必要が無い、というのが文部科学省の見解。最近、野外焼却法みたいなものが出来て、落葉炊きをやらなくなった。で、落葉炊きの歌も無くしてしまった。それにある人は怒ってました。

中沢 それは、言葉はあるものを指している記号だ、と考えているからですね。

宇多 そうなると、馬鹿みたいなことになっちゃう。

岡崎 世田谷区が「日本語教育特区」となり、日本語、という教科書を1・2年生、3・4年生、5・6年生用と3冊作って、去年の4月から授業を始めています。石川先生もそれにタッチされました。私びっくりしたのですが、1・2年生の教科書の中に、漢詩が5首入っています。

宇多 これは私日本中に配ったら良いと思いました。まさに格調が高いですね、選ばれているものが全て。子供に媚びてはいませんしね、これは。

中沢 それはとっても大事なことですね。

宇多 漢詩をこのくらいの年代に覚えたら、訳が分からなくても良いから。そしたらその子の一生のうちで色んなところでひらめいてくると思います。

中沢 さっき楽屋でお話していたんですが、訳が分からなくて覚えた言葉の、訳が分った時ってとてもたのしいですよね。私も小さい時に、百敷や古き軒端の忍ぶにもって、ずっと腿ひきが古い軒端に干してあると思っていたのですけど、あるとき百敷という文字を見て、やや!これは字が違うぞ、と。訳が分からない言葉でも記憶していて、あとですっと分かって頭の中に電気が灯るような感じというのは楽しいし、そのことによって言葉が好きになりますね。

宇多 私は死語という言葉が嫌いです。言葉は嘗て人々が生き生きと使っていたからあるのですね。それを使わなくなると、便宜上死語と言ってますが、悉くそうなのですね。たとえば春の季語は、毎日毎日生まれています。若い俳人が、ビーサンが、などと使ってくる。私にはそれが食べるものか着るものか分からなかったのですが、ビーチサンダルのことだそうです。それは夏の季語ですが、私はそういうものを使いなさるな、とは言いません。大いにお使いなさい、と。季語は5年もすると全く変わってきて、今ここにある季語集の5割は使われなくなってしまう。春の風、というのはそれこそ3千年前から春の風でしょう。ところが生活に関するものだと、たとえば火鉢というものを説明するのにとても苦労する。それと私がいま、携わっているのは、江東区なのですが、子供さんたちをある日本家屋に連れて行って、これが障子です、これが襖です、これを敷居と言います、これを鴨居と言います、床の間というのはこれなのよ、と。こうすることには、やる意義があります。

中沢 死語という言葉を矢鱈に使うな、ということは私も同感で、さっきの村の鍛冶屋ではありませんが、では鬼に金棒はどうするのだろう。誰か鬼が金棒を持っているのを見たことがあるだろうか。でも、それはまさに鬼に金棒だね、と言えば分る。言葉は使って初めて生きた言葉になってゆく。で、これが障子だこれが柱だ、と教えるのも良いのだけれど、私としては今のマンションのどこにでもある普通の、鍵とかドアのノブとかをどう呼んだら良いのか分からない。マンションの玄関は、5センチくらい上がっているだけで、あれを上り框と書くわけには行かないのです。で、何と呼ぶのか建築関係の本で調べると、ちゃんと名前はあるのですが、一般化していない。A4型と、型番で書いては参考にならないので、そこを工夫するのですが、日常生活の中のこういう部分が言葉として追いついていない。

宇多 それは私も切実に思います。

中沢 小説は紫式部から始まったというけれど、描写する単語がない。田舎の風景を描くために港湾施設にあるキリンみたいな、色々ありますが、ああいうものをなんて書いたら良いのか。建設省で出しているものを調べたら名前はある。私たちが古い言葉を死語と言ってどんどん切り捨ててしまって、新しい自分の生活の中に生れてきたものに名前を付ける努力をしていないから、表現として空白の状態が生まれている。

宇多 言葉は生き物だし、変遷して当たり前なのですが、その通りですね。

中沢 明治時代にあれほど沢山の漢詩が書かれていて、あれほど沢山の漢語の文章を日本で作っていて、中国や韓国で今それほど使われていない、ということを考えると、歌を作りたい、と思った時に根っこにあるのは人間の名付けたい、という意欲ですね。

宇多 これはたまたま国語の問題ですが、3つになった子供に絵本を読ませようとすると右開きの本が無いのです。全部幼児の本は反対からあけるものしかない。全部横書き。だから彼らは横書きに親しんでいるのです。これはこの国の文字文化にとってものすごく大きな問題だと思います。今公文書がみな横書きになっていて、仕様がない気もしますが。俳句は縦に書きますから、ものすごく痛感しています。今若い方が集まると、電話のディスプレイにちょうど良いとか17文字を一行横書き入力。小説もみんな電話の上で読んでますね。

中沢 あれは携帯電話で、早くて良いですから。

宇多 句会も携帯の連絡でやっています。昔は集まって、人の顔見てやっていた。ところが今やインターネットでやりますから何も人が集まらなくてもいいのです。昔は、てにをはの使い方が悪いとか、議論が沸騰すると、一寸外へ出て、やり直そうとかで、居酒屋へ行って延々とやるとかできた。