(2008年05月10日)
宇多喜代子、中沢けい、石川忠久、岡崎満義

漢詩の素養とは

岡崎 漢詩では女性の漢詩と男の漢詩とは、大きな差異がありましょうか?

石川 いや、あまりありません。ただ、中を読んで見ると女性が夫のことを思っている、と言うのは、あるのです。しかし言葉遣いに差は無いですね。一将功成って万骨枯る、と言う有名な句は、女性の詩に出てくるのです。

宇多・中沢 ああ、そうなのですか。

石川 あれは、そういうようなことがあるから、戦争には行かないでくださいね、というのです。対象は妻から夫へ、ですから。言葉の上では、男女の区別は無いが、女性らしき感性は、沢山あります。矢張り女性の詩だな、と言うのはすぐに分かります。

宇多喜代子さん

宇多 俳句の方は、作っている人たちから女性を引いたら、誰もいなくなる。本当に女性が多い。女性も普通の主婦、生活力があるから、句は力が漲っています。私が17・8歳で始めた頃、句会へ行くと、私は昭和10年生まれで、その頃はこっちを見るとまだ江戸の匂いのするお爺さんお婆さんが沢山いて、反対側を見ると、コンピューターで動く世代で、私の世代はどっちも見える。

そうすると、句会で、お前たちは漢籍の素養がないと、二言めには言われました。ごく普通のおじさんでも、誰かがどこかへ行くと言うと、送別の詩を漢詩でちょこっとすぐ作って書いて手渡したりしてしまう。そういうことが日常だった。その頃俳句を作っていた女性たちはごく稀でした。

中沢 漢籍の素養について、羨ましいなと感じるのは、俳句がどうしてあんなに短いのに表現できる世界を皆が享受できるかというと、その背景になっている教養は、様々な文章、様々な本が読まれている、共有されていると言う約束の中で出来てることですね。ところが小説の場合には、ヨーロッパのノヴェルが入ってきて素養になる本が全く無いわけではないが、読んでいて当たり前と言う本を、漢籍の素養が根付くほどまでには持っていない。

石川 一寸教養についてお話しますと、明治大正までの教養人のベースになっているのは、決まっているのです。決して多くはない。思想で言えば論語・孟子、詩で言えば唐詩選・一寸進んだら三体詩。歴史で言えば十八史略。こういうものが下地になっているので、これを勉強しておくことが大事なのです。そうすると例えば漱石、彼の素養はそれですから、漱石の文章は分かるのです。漢文の本は沢山あって切りが無いが、ベースになっているものは必ずやらなければ。日本人として学ばなければならないものは、決してそれ程多くは無いですよ。

中沢 小説で言うと、例えば遠藤周作さんが仰っていたのですが、夜明けに鳥が鳴いた、と書くと、ヨーロッパの人が読むと、キリストが最後の晩餐の後に祈りに入るときに鳥が鳴いた、と言うイメージがある。所が日本の読者は残念ながら共通に聖書を読んでいないから、夜明けの鶏になってしまう。ヨーロッパではギリシャ神話と聖書は非常に大きなベースになっていて、それを読んでいて、ナルニア国物語を読めば、非常に面白い。日本では今話された十八史略や唐詩選だったのですね。所が、今はとても忙しくて、そういうベースになる教養書をどこに求めるか、悩ましい問題があります。

石川 基礎的なものはやらなくてはいけませんね。論語だって、昔は洟垂れ小僧だって読んだが、今は洟垂れ小僧どころか、大学生でも読む者は少ない。文章規範とか、ああいうものがベースなると良い。

宇多 実は今日から私も漢詩を作りたいと思ったら、どうすればよいのか。漢詩は読み下しの形で石川先生の本を読んではいるのですが、この年になって、一寸自分でも作ってみたいと思うようになりました。そういう時は何処へ行ったら良いのでしょうか?

石川 それ程、思うほどは難しくない。漢詩講座を1週間に1回ずつ聞いて、半年くらいで出来ますよ。3年すれば、石の上にも3年、昔の人はいい事を言ったな。

宇多 それは夢がありますね。

中沢 子供に直接教育するよりは、女性たちに漢詩の作り方を覚えてもらって楽しんでもらって、お母さんたちが日常楽しんでいるのが、それが自然に子供に伝わって行くと言うのが良いのかも知れませんね。急がば回れ、で。

宇多 それと、キャッチコピーというのがあって、広告なんですが、これは一番俳句に近い。短く、5・7・5とは違うのですが、5・7・5は機能なのです。17じゃない、5・7・5。例えばその人の一生を5・7・5であらわしなさい、と言われたら、その機能を借りるより仕様が無い。そうすると旨くいえるのです。広告文案というのは目的がはっきりしていますね、これならこれを売らなければいけない、と言う。そうすると一番初めに私が感じるのは、資生堂の、水白粉というのがありますが、清らかな、しとやかな、また晴れやかな、と言うのが、世の中に出たコピーといえるものの初めなのですが、清らかでしとやかで晴れやかでも良いのでしょうが、そこに、また、が入ることで、覚えやすくなる。そういうものを耳にして馴染んでゆくと、先に申し上げた諺だとか、リズムを持っていて体に馴染むと良いのです。私が漢詩の読み下し文が好きなのは、リズムだと思います。

石川 漢詩は元は勿論中国のものでありますが、返り点のおかげで日本のものになっているのです。ですから、世界的に見ても不思議なことなのですが、日本人だけがこれが直接読める。そういう自覚が必要です。漢文はどうせ中国のものであるから、勉強したって意味が無い、と言う人がいますが、これは短絡的です。我々はこれを日本の言葉としているのですから。一将功成って万骨枯る、と読めばそのまますっと入ってきます。中国人は中国のものとして扱うが、日本人は同時に自分のものとしている。

この辺の所の錯覚が、戦後の教育を駄目にしています。というのは漢文はやらなくても良いという考え方があったでしょう。日本のものだという考え方が無いのです。これは日本のものなのだからやらなければいけない。漢文は、外国のものではない。中国語をいくら勉強しても漢文を読めるようにはならない。中国人も古典を読むときには古典を勉強しなければ読めないのです。その辺に錯覚があって、われわれは先祖が開発した素晴らしい漢文の訓読法を持っている。先祖が開発してくれて、ずーっとそれ以来身に沁みついている。これを勉強しなくては。これをうんと勉強すれば、共通のベースも広がるし、昔の人ともつながれるし、中国ともつながることが出来るのです。こんな良いものをどうしてやらないのか、というのが私の持論なのです。

中沢 どういう文章が良い文章か、美しい文章か、というと実は色々あるのです。色々と言葉を尽くして飾り付ける、というのもあるのですが、平易平明という価値観が非常に強くて、わかりやすく易しく誰にでも受け入れられる文章が一番だ、という考えでこの50年間ぐいぐい押してきてしまったので、一番問題なのは、格調ということが分からなくなっていることなのです。漢詩を読んでいて、格調の高さが読者としては、一番の喜びになるのですが、