(2008年05月10日)

《座談会》 漢詩の楽しみ・漢詩の可能性
宇多喜代子、中沢けい、石川忠久、岡崎満義

定型による言語感覚

岡崎 作家の中沢さん、散文、小説という表現形式でご活躍ですが、その立場から、俳句短歌、漢詩を含めて、定型詩というものをどうご覧になっていますか。


中沢けいさん

中沢 高校を卒業して、大学1年生の時に「群像」という雑誌の小説賞に入選して、以来30年ほど小説を書いています。今日おいでの方々の中では、表現形式が一番自由なジャンルであるわけです。私は法政大学日文科で、卒業制作をする学生のお手伝いをしているのですが、学生の皆さんが、自分でどういう分野の表現を選ぶか、詩を書いても、短歌でも俳句でもよい。今年の指導面接が終わったばかりのところですが、ほとんどの人が小説を書く希望者でした。2名だけ現代詩で卒業制作をという希望がありました。大学の指示は50枚以上の条件なので、詩集を一冊作ってください、ということにしました。一度だけ短歌で50枚の論を立てて、それに10首だけ添えてきた人がいました。こうした経験から、定型詩というのはそれなりに勉強が必要かな、と思いました。

短歌・俳句、あるいは漢詩の場合、作る上で先ずルールがあって、はじめにそのルールを勉強し、その上で、ということになる。そこをクリアーして初めて達成感が味わえるのかな、と思います。現代詩や小説は、非常に自由な表現形式でありまして、更に1980年代から自由に、自由にとなってきた。古いリアリズム小説からどう脱皮するかの模索が始まったので、小説家の文章、SF作家の文章、評論家の文章などの間にあった違いが壊れてくるんですね。若い学生の皆さんは、やはり一番新しい分野で勉強するのが好きですから、その辺を真似て書いてくるんですが、先生これは小説になっているんでしょうか、と質問されて、これも、君がなっていると思ったんなら、なっているんだよとこたえているんです。表現形式が過度に自由になってきた時代に現代はあるわけで、逆に、定型の魅力のようなものを改めて感じ始めている人も出ているのでは、と私は思います。

岡崎 宇多喜代子さんは今読売新聞の読者俳壇の選者をされています。最近の読者投稿の俳句をご覧になって、ある傾向といったものがありますでしょうか?

宇多 ございます。私は中沢さんのお母さんと同い年ですが、小説や漢詩と比べると、俳句の、愛好者人口は大変多い。たとえば私がいま地方に行って、俳句の会をしようというと、すぐに沢山の人が集まる。それも普通の人が多い。年齢的には60代70代の人が一番多い。戦前は困苦欠乏に耐えた?代で、何か勉強したいと思った時に、今から小説を書こう、では間に合わない。その時に俳句はてっとり早く、ルールがあって取り付きやすい、定型で、5−7−5でできるという、皆さんに働きかける強い力を持っていた、と思うんですね。

私がいま70何歳までに記憶している自分の俳句、17、8歳から始めましたから、記憶にある俳句を一字一字升目を埋めるように書いてゆくと、それこそ50枚どころではなく、もっとたくさんの枚数になる。ところが文章でそれだけ覚えておきなさいと言われても、とてもそれはできない。しかし俳句なら、定型だから覚えていられる。定型にはそういう良さがあります。なんの努力もなくて簡単に覚えられる、口に出してすぐ言える。

漢詩も、私は石川先生の書き下しを読むのが楽しみで、四季それぞれの巻を拝見させていただいておりますけれども、俳句もそうですが、漢詩はひとえにハンデイがあるところに楽しみがあるのでしょうね。俳句の投稿は毎週何千とまいります。私の担当しているNHKの俳壇の投稿も、もうダンボールに何杯も、です。どこの何さまからではなくて、さっきまで田圃で仕事してたとか、豆腐を売っていたとか。その中に、キラッとした良い言葉が必ずあるのですね。

昔でいえば日常生活の中にそういう言葉がたくさんあったのです。たとえば諺だとか、標語だとか、いろは歌だとか、百人一首だとか。それを使った表現があった。たとえば若い人に芝居の席の予約を頼んだ時に「立ち見ではなんだから、とちりの辺でね」と言ってもわからない。前から7番目から9番目の辺りで、ということなんですが。5月がすんだら肩こり納豆だとか、花見がすんだら牡蠣食うな、とか、日常のことを一種の定型で表すことが普通だった。それで、定型表現になじんでいた。梅干しを食べたほうが良い時でも、ただ梅干しを食べなさい、というのではなくて、梅はその日の難逃れ、中に天神いてござる、と。つまらないようなことですが、そういうようなことで日常を管理してゆくと、定型による言葉感覚が、身体感覚として入ってくるのですね。それが、俳句が持っている一番のベースだと思います。