(2010年08月15日)

からたち、けしの花を詠む

    野塘  野塘  韓偓
侵曉乘涼偶獨來 暁を侵し 涼に乘じて 偶[たまた]ま独り来たる
不因魚躍見萍開 魚の躍るに因らずして 萍[ひょう]の開くを見る
捲荷忽被微風觸 捲荷[けんか][たちま]ち微風に触れられ
瀉下淸香露一杯 [そそ]ぎ下す清香の露一杯

 晩唐から宋に移る、少し理屈っぽい傾向の詩の先駆です。

 朝早く涼気に乗じて、偶ま独りでやって来ると、魚が躍ったのではないのに、水草が開いた。何故だろう。それは、くるりと巻いたはすの葉が、そよ風に触れられて、さらさらと、清らかな香りを含んでいる露を、そそぎ下した事であった。

 はすの葉が巻いていて、そこに露が宿っている。自らいいにおいがするので、清香と云っている。これが風にゆられて、ころころっと落ちたと云うので、まことに観察が細かいです。品の良い詩です。なかなかこう云う処には気がつかない。一つの新しい世界の発見と云って良いでしょう。

 來・開・杯、「灰」の韻です。

 さて、次の雍陶の作品は二つありますが、これも新しい発見。先程そばの花の話をしましたが、そばの花をきっかけにして、従来は詩の世界に入って来なかった処を詠む。最初は枳穀花、枳穀はからたちの花です。

   城西訪友人別墅 城西に友人の別墅を訪ぬ 雍陶[ようとう]

水橋西小路斜 [れいすい]の橋西 小路斜めなり
日高猶未到君家 日高くして猶お未だ君が家に到らず
村園門巷多相似 村園門巷[もんこう]多くは相似たり
處處春風枳穀花 処々の春風 枳穀[きこく]の花

 水と云うのは、西から東へ流れて洞庭湖に注ぐ河です。その?水の橋の西の方へ小路が斜めに続いている。小路と云っているのは、大きな風景ではない。小さな風景に似合うのが、この枳穀の花なのです。

 からたちの花は小さくて観賞に耐えるような花ではありません。場面を小さく、又ひなびたものにしている。舞台が小さい。日が高く昇っても、まだあなたの家には着きません。相手はどうやら隠者っぽい。隠者先生の処へプラリプラリと行くのです。村の畑や路地が皆良く似ている。

 似ていると云っているから、枳穀の花はそこいら中にあるのです。一軒の家にぽつんとあるのではない。そこら中。それが分かるように伏線をはって、舞台装置を整えている。

 どこへ行っても同じような家があって、同じように枳穀の花がある。いかにもひなびた田舎風景を詩にしている。これが美しいと云う事を見つけたのです。

 今度は同じ雍陶の米嚢花[べいのうか]、けしの花です。これも面白い花ではありますが、今迄の人は詩では触れなかった。

    西歸出斜谷  西に帰りて斜谷[やこく]を出づ  雍陶

行過険棧出褒斜 険桟[けんさん]を行き過ぎて 褒斜[ほうや]を出づ
出盡平川似到家 平川[へいせん]を出で尽くせば 家に到るに似たり
無限客愁今日散 無限の客愁[かくしゅう] 今日散[さん]
馬頭初見米嚢花 馬頭[ばとう]初めて見る米嚢花[べいのうか]

 褒谷は谷の名前。雍陶は四川省出身で、故郷へ帰る。危険な山桟道を超えて、平らな川の処へ出ると、もう家に着いたような気がするなあ。ほっとした。ほっとした目に、無限の客愁今日散じて馬頭に初めてけしの花が見えた。蜀の地にはけしの花が多いのでしょう。けしの花が沢山咲いているなあ、と云ってけしの花に望郷の思いを込めている。