(2010年08月15日)

「天香國色」という言葉

 さて、劉禹錫はどのような詩を作っているか。

     賞牡丹  牡丹[ぼたん]を賞す  劉禹錫

庭前芍藥妖無格 庭前の芍薬[しゃくやく] 妖として格無し
池上芙蕖淨少情 池上の芙蕖[ふきょ] 浄くして情少し
唯有牡丹眞國色 [た]だ牡丹のみ 真の国色有り
花開時節動京城 花開くの時節 京城[けいじょう]を動がす

 庭の前に咲く芍薬は妖しげな美しさがあるけれども、風格がない。池の上の蓮、これも浄らかで美しいが、一寸情が少ない。

と、芍薬と蓮を褒めつつもけなしている。

 それに較べると、矢張り牡丹だ。唯だ牡丹のみ、本当の国の色がある。牡丹の花の咲く時節になると、都中がどよめいている。いかにも国色、「天香国色」と云う言葉がある。牡丹のために作られた言葉です。豪奢な花であります。牡丹の花の詩は沢山あります。

 第一句と第二句は対句になっているので、第一句は踏み落しになっている。一・二句が対の場合は、一句目は韻を踏まないのです。二句目・四句目が情城と、八「庚」の韻になっている。

 次は杜鵑花、これはつつじのことですネ。

 宣城見杜鵑花 宣城[せんじょう]にて杜鵑花[とけんか]を見る 李白

蜀國曾聞子規鳥 蜀國曽[かつ]て聞く子規の鳥
宣城還見杜鵑花 宣城還[ま]た見る杜鵑の花
一叫一廻腸一斷 一叫一廻腸[はらわた]一斷
三春三月憶三巴 三春三月[がつ] 三巴[さんぱ]を憶う

 これは言葉遊びですネ。

 蜀の国で曽てほととぎすを聞いた。ほととぎすと云う鳥は色んな名前を持っている。子規もそうです。

 宣城でまたほととぎすの花を見る。杜鵑もほととぎす、杜鵑の花と書いてつつじの事なのです。ほととぎすは鳴いて血を吐くと云うように、つつじは血のような色です。

 ほととぎすが鳴く頃、丁度満開になって、而も鳴いて血をはくと云う血の色の花ですから、杜鵑花と云います。子規と杜鵑とは、どちらもほととぎすを意味しますが、使いわけをしている。

 これも第一句第二句は対句になっていて、矢張り踏落しにしている。

 一叫一廻腸一断 三春三月三巴を憶う。一・一・一、三・三・三。

 ほととぎすが一度び叫び、一度び廻ると、聞く者は腸が飛び出てしまう。いわゆる断腸の憶いになってしまう。悲しい。

 三春と云うのは春三ケ月、その三春の三月、晩春になります。

 三巴と云っているのは、李白の故郷が三巴。厳密に云うと巴と云うのは現在の四川省の東の部分を云う。酉の方を蜀、合せて巴蜀と云うがここは三巴と云う。大きく巴蜀全体を云っている。

 ほととぎすは「不如帰」と鳴くと云います。「不如帰」。徳富蘆花の小説はこう書いて「ほととぎす」と読ませています。これはほととぎすの鳴き声から来ている。

 中国語では「フー・ロー・グェ」余り似ていないか、日本では「東京特許許可局」だが「フー・ロー・グェ」帰るに如かず。帰るに如かずは、帰りたい帰ろう、と云う意味です。

 昔蜀の国に望帝と云う皇帝が、居たんだけれど家来にとらわれて悲しみの余りほととぎすになってしまった。そして帰りたい、帰りたいよと云って泣いた、と云う伝説がある。悲しい鳥なのです。

 これは前半も後半も対句になっている。全対格と云います。韻は花、巴、「麻]」の韻です。