(2010年08月15日)

「牧童」がこの詩のカギだ

    清明  杜牧
清明時節雨粉粉 清明の時節 雨粉粉
路上行人欲斷魂 路上の行人[こうじん] 魂を断たんと欲す
借問酒家何處有 借問[しゃくもん]す酒家[しゅか] 何れの処にかある
牧童遙指杏花村 牧童遙[はる]かに指さす杏花[きょうか]の村

 日本でも四月の始め頃になると雨が良く降る。菜種梅雨です。杜牧の時代も、清明の時節は雨粉粉。路上の行人と云うのは自分のこと。

 行人は旅人。「魂を断たんと欲す」は漢文で読むと非常に固いことのように見えますが、「気が滅入る」と云うことです。

 雨がしとしと降って気が滅入るなあ、気晴しに酒でも飲みたいなぁ、どこかに酒家がないかと思って見ると、向こうの方から牧童が来る。

 牧童は牛を連れて来る子供の事ですが、実は牧童と云うのがこの詩の一つの鍵なのです。中国の詩の世界では、俗世間に対して超俗世間がある。この超俗世界の人が三種類あって、そのうちの一つが牧童です、あと二つは木樵りと漁父。

 ですから、ここで牧童が出て来たと云うことは、詩の舞台が俗世間ではない。牧童遙かに指す杏花の村。そこには、他の杜牧の詩にも出て来る酒旗、酒屋ののぼり、酒?とも云うし、青い色をしているから青?とも云う。

 それが雨にそぼぬれて見える。こう云う図だと思います。牧童は、答えてあっちだよと、青い旗と杏の花は白くて小さい花ですけど、合せて彩りになっている。杏の花は脇役です。

 主役は牧童なんです。牧童の遊ぶ世界で、そこに自ずから超俗の世界が浮上って来る。

 酒家何れの処にか有るの「有る」については、「在」ではないのかと云う質問が良く出る。在でも成り立ちますが、在だと存在を尋ねるので、ある事が分っていて尋く。「有」だと有るか無いかを尋く。ですから、この場合は在では面白くない。言葉の気分が違うのです。粉・魂・村と「元」の韻です。

 次に梨。これも小さな花です。

 和孔密州五絶 蘇軾 孔密州[こうみっしゅう]の五絶に和す

 東欄梨花  東欄[とうらん]の梨花[りか]

 「東欄の梨花」が詩の題で、「孔密州の五絶に和す」は前置きです。

 密州は地名。今の山東省青島の近く。蘇東坡はそこの知事をしていたのですが、孔子のご子孫の孔さん、四十六代目の人ですが(今は七十九代目になる)、その人の詩に和した。

 五絶と云うのは五言絶句ではなくて、五首の絶句の意味です。五つ貰ったから五つお返しをした。そのうちの三つ目。

梨花淡白柳深青 梨花は淡白 柳は深青
柳絮飛時花満城 柳絮[りゅうじょ]飛ぶ時 花 城に満つ
惆悵東欄一株雪 惆恨[ちょうちょう]す 東欄一株[とうらんいっしゅ]の雪
人生看得幾C明 人生 看[み][う]るは幾C明[いくせいめい]

 梨花の花は淡く白く、柳はまっだ。上の四字と下の三字は同じ構成になっていますから、こう云う構成を句中対と云います。句中対にすると調子が良くなる。

 柳の綿が盛んに飛ぶ時に花は街一ぱいに満ちるのである。柳絮は中国では風物詩になっていて、北京辺りは凄い、公害と云って良い位飛んで、婦人はヴェールかぶって避けたり。

 前半ここまでは前置きになっていて、惆恨す、これは頭に同じ「ち」が来る。双声語と云います。後の方が揃うのは重韻語と云う。重韻語と双声は良く出て来る。

 東欄の欄は花壇の柵のことで、梨畑の柵に一株、雪のように梨の花が咲いている。この美しい梨の花 人生看得るは何回の清明にめぐり合えてのことだろうか。この詩は梨の花のはかなさを謳うことによって、人生のはかなさを詠んでいる。

 梨は白くて淡い色をしているので、無情と云うことに通ずると云えば通じるでしょう。尚、杜甫の時代の先輩の白楽天に、長恨歌があるでしょう。

 楊貴妃と玄宗の物語ですが、楊貴妃の泣きぬれている様子を白楽天が「梨花一枝春雨を帯ぶ」と形容している。春の雨にそぼぬれてぼーっと煙っている、淋しい花です。

 美しい上に淋しい花でありますから、人生の無情と云うのを引き出すのには打ってつけです。第一句は、二句四句は庚の韻ですから通韻しています。通韻の原則はこのように、A・B・Bとします。二つの韻を交互に混ぜてはいけない。

 次に牡丹の花に行きます。牡丹の花は豪奢な花で、国色と云います。国の色、国を代表する色だと詠われている。

 この牡丹は、唐の栄えた時代には、最も流行った花で、金持ちは金にあかせて牡丹の花を育てた。そこで進士の試験に及第した若い才子は馬に乗って、どこの家の牡丹も無礼講で見て良いという、洒落たならわしがあったようです。

 「一日看尽くす長安の花」孟郊の詩ですネ。国色とも云うし長安の花とも云った。韓愈の弟子、弟子と云っても韓愈より年が上なのですが、この孟郊は何遍も何遍も試験を受けて落第している。

 彼の詩集を見ると、落第、又落第、又又落第と落第の詩ばかり。ところが最後に受かったのです。受かった時は47〜48歳になっていた。彼は飛び上がって喜んで、「一日看尽す長安の花」、余りに嬉しかったからかどうか分からないが、この詩は平仄が出鱈目。

 長安の花は平・平・平です。嬉しくて、平仄など構ってはいられない、その辺にも喜びの大きさが判ると思います。