(2003年03月21日)
講演会『明治以後の漢詩』
全日本漢詩連盟会長 石川忠久

戦争中の紙の統制

 ただコミュニケーションの事からいえば良くなってきたわけです。交通が発達し、電信電話が出来、新聞が発行され、雑誌が発行されるようになれば、色々な地方地方の動きがすぐに伝わるという事がありまして、明治30年代から各地の詩社が活発になっているようです。詩社が所謂機関誌を発行して、その機関誌が全国的に波及するというようになったのが、明治30年代。

 今私が手に持っていますのが、隨?集、これは大久保湘南という人が編者で、錚々たるメンバーが入っています。これを見て驚くのは、会費が高いということ。1円。明治30年代の1円は今にするとどの位でしょうか。これが正会員。賛助会員は2円。こちらの方は文字禪というのですが、これは上村売剣という人の編。これは明治の末から昭和の初期の頃迄出していたもの。一寸時代は下りますけど、これは東華。大正の末から昭和30年代まで出た最後の詩社の機関誌ですね。

 こういう雑誌が民間でどんどん出されて、むしろ活発だった。但し、その主宰者が死にますと後が続かない。ですから明治以後漢詩は急に衰えたわけではないが、詩社をリードした人達がやがて年をとって亡くなって行くと、その後継者が居なかったんです。その一つの典型的な例が、剪淞吟社という松江の会です。大正の中程から始まって、昭和の10年頃迄続いておりますが、これは一地方のものではないです。全国の愛好者を集めて盛大に行われていた。

 ところが、横山耐雪という主宰者が亡くなると後が続かなくなったのです。惜しくもこれはお終いになりました。今島根県立図書館に全部が保存されております。

 こういう例はまだ沢山あると思います。もう一つこういう地方の詩社の機関誌が駄目になった理由は、戦争中の紙の統制です。不急不要のものは自粛ということで息の根を止められたのです。丁度その頃に明治に活躍した長老達が大体亡くなった。昭和19年に国分青という先生が88で亡くなっているのは象徴的な事件であります。国分青といえば明治の詩壇を森槐南と二分した詩人です。戦後は御承知の通り漢字制限や学制改革などによって衰亡に拍車がかかって来たわけであります。

(以下、紹介した詩は次の通り)
 竹枝詞(劉禹錫)
 岐阜竹枝(森春濤)
 墨水竹枝(山内容堂)
 郊外(正岡子規)
 墨上春遊(永井荷風)
 無題〈仰臥人如唖〉(夏目漱石)
 竹陰読書(大正天皇)