(2005年07月01日)

講演会『大正天皇の漢詩』
全日本漢詩連盟会長 石川 忠久

微笑ましい子弟の情

 次ぎの詩は明治32年、3年後のもの。

    観布引瀑
登阪宜且学山樵 登阪宜しく且く山樵を学ぶべし
吾時戯推老臣腰 吾時に戯れに老臣の腰を推す
老臣?柿纔医渇 老臣柿を?いて纔かに渇きを医やし
更上危磴如上霄 更に危磴に上ること霄に上るが如し
忽見長瀑曳白布 忽ち見る 長瀑の白布を曳くを
反映紅葉爛如焼 紅葉を反映して爛として焼くが如し

 沼津の御用邸から軍艦に乗って神戸の布引の滝を見に行かれた折のもの。舞子浜にあった有栖川の宮別邸に滞在され、ある日お出かけになられた。老臣三島中洲が上るのに苦労、柿を齧ったりしてハアハア、後ろから腰を押してお助けになられた。観察が細かく、正に詩人のセンスで、3年経って手馴れてこられた。大変面白い古詩である。

 この頃の作詩のご様子をご学友であった甘露寺宮司が回想している。中洲が来てご学友と一緒に作詩の指導をする。そのうち一人欠け二人欠けして、終いには陛下ともう一人だけが残られて、熱心に続けられた由。

 苦労して高みに上りつめて、はっと滝が出てくる。出し方も素晴らしい。その白い背景に、真っ赤な紅葉が映える。美しい。構成に山があり、センスが良い。

 このとき中洲もお返しの詩を作っているが、その序に「太子戯れに後ろより之を扶く。感泣の余、窃かに賦す」として、感激している。微笑ましい子弟の情が感じられる。

瀑声遥隔翠微聞 瀑声遥かに翠微を隔てて聞く
阪路崎嶇攀夕? 阪路崎嶇として夕? に攀ず
無限慈恩行欲泣 無限の慈恩 行くゆく泣かんと欲す
労将玉手上青雲 玉手を労わり将ちて 青雲に上らしむ

 この2つの詩は詩として優れているというよりも、21歳の皇太子と70歳の老師との交流のほのぼのとした雰囲気が分って良い。中洲は備中高梁藩の山田方谷の弟子。方谷は西暦1805年の生まれで、今年はその生誕200年祭が行われる。6月11日(土)高梁で藩校サミットが開かれる。江戸時代は教育の水準が全国的に高かった。世界でも稀である。

 幕府の老中を務めたので明治になって敵方だったが、備中高梁藩の財政建て直しの実績を買われ、大蔵大臣就任を要請された。老齢を理由に断って、弟子を推挙した。中洲もそれで中央へ出て、明治6年にはいきなり土浦県の裁判長についている。

 今、法科大学院が出来たが、何を教えるか。法律の瑣末な事よりは、良い裁判の出来る人間を育ててもらいたい。良い裁判は立派な人格で出来る、ということは中洲が良い例だと思う。