(2009年11月15日)

おわりに

 「詩書両輪」を標榜して数十年、私自身は、詩と書を区別して考えたことはない。

 蘇東坡の題西林壁「横看成嶺側成嶂 遠近高低各不同 不識廬山真面目 只縁身在此山中」(横に看れば嶺を成し側は嶂を成し 遠近高低各おの同じからず 廬山の真面目を識らざるは 只だ身の此の山中に在るに縁る)が頭をよぎった。

 詩と書は別々に云々するのではなく、一体と考えることによって詩書という山が見えてくる。自分の意志を心をこめて詩を作り、その詩にあった調子や印象を、遅速、太細、潤滑、紙色などを考慮して書に表現できれば幸いである。

 山は高ければ高いほど崇高なものであるが、低ければ低いなりにバランスの取れた美しい山となれば、その存在価値はあると思われる。

 今年の二月に急逝された日中自詠詩書交流会の生みの親である渡邉寒?先生は、第五回北京展(1994)の団長挨拶の中で、「中国詩詞は、日本人の教養の底流を形造り、常に脈々と流れ続けており、中国紹介番組では陶淵明、李杜を代表とする詩詞によって登場します。しかし、これらは過去の文化遺産としての、いわば化石同様の扱いというべきであります。私たちの日中友好自詠詩書交流会はこの伝統ある文化に新しい息吹を与え、現代芸術として生かそうとする詩書の会であります。漢詩を過去の存在にしてはならないということを改めて認識すべきだと思いますと述べていることは、今後を示唆した名言である。

 今後の書にあっても、「詩書両輪」いわゆる「詩書芸術」が発展していくことを期待している。