(2010年05月15日)

「年老逢春吟」の系譜

それでは諸橋博士の律詩を御紹介しましょう。

年老逢春吟十三首  諸橋轍次

東野元田先生、碩学鴻儒、久侍経?、晋謁進講、黼黻帝業、曽有年老逢春吟十三首、?和再三、計三十九首、次伊川語泄v韻也。

不侫菲淺、不自揣、拜命侍讀、備員於東宮、三余拈筆、妄攀東野遺藻、同題日年老逢春吟。

最初に長い序がついています。

東野元田先生、碩学鴻儒久しく経?に侍す

晋謁進講、帝業を黼黻す、曽て「年老逢春吟」十三首有り、?和すること再三、三十九首を計[かぞ]う、伊川の語泄vの韻に次するなり。

不侫菲浅、自ら揣[はか]らず、侍読を拜命して員に東宮に備わる、三余筆を拈ず、妄りに東野の遺藻に攀ず、題を同じうして「年老逢春吟」と曰う。

この序をかいつまんで御説明すると、明治の頃、元田東野と云う先生がおられた。例の「教育勅語」の発案者と云われている方ですが、この先生が、「年老逢春吟」と云うのを十三首作られた。三回くり返したので三十九首になったわけです。

その「年老逢春吟」と云うのは、宋の語泄vの眞似をした。語泄vは訣N節と云って、北宋、范陽出身の学者です。伊川はそこの地名で、此処の出身の人ですから、伊川の、と云う。そう云う名の川が流れていた。

その語泄vが作った詩の韻を利用して、元田先生がお作りになった。

諸橋先生は皇太子の先生になられましたが、非常に謙遜されて、私は学問も浅いのに、自らは揣[はか]らざるに、侍読を拜命し、員に東宮に備わる、と云っておられます。その頃の皇太子は今の天皇です。昭和23年の詩ですから。皇太子の先生となられた、これを侍読と云います。

員に東宮に備わると云うのは、東宮は皇太子の宮、そこで侍読の掛りをすることになった、と謙遜した云い方です。

三余と云うのは、暇に、と云う意味ですが、冬は年の余、夜は日の余、雨は季節の余。冬、夜、雨、こう云った時には野良仕事が出来ない。昔は農耕生活でしたから、仕事が出来ない時に勉強した。で、三余と云うのは、勉強する時を云います。