(2005年01月01日)

「朗誦」の意義を考える

漢詩朗誦会を終えて
金  中

 いつの頃からか、私の夢見ていた「漢詩朗誦会」が、2004年10月22日の重陽節の夜、ついに現実のものとなりました。

 約4ヶ月の間多くの準備を整え、興奮のあまり眠れぬ夜も少なくありませんでした。作品の選択から舞台設定・背景・照明・伴奏音楽に至るまでの諸問題に、一々対決しました。劇団まで足を運んだこともあります。本当に貴重な人生体験になりました。

 私は一介の留学生として、異国の地でこのようなイベントを敢行したことを、我が熱き青春のこの1ページを、やはり誇りに思います。

 言うまでもなく、それは多くの方々の暖かいご支援によってこそ出来たものです。私のために奔走してくださった親友の方々、多忙の中わざわざ推薦文を書いてくださった石川先生、多大の信頼を寄せてくださった全日本漢詩連盟理事会の方々、そして、当日ご来場の方々に、心より厚く御礼を申し上げます。

 今振りかえると、当日の「朗誦」の出来具合は一応満足できます。照明が落とされた、しんと静まるステージの上に立ち、漢詩作品の感情世界に全身全霊を投入できたからです。私が吹き込んだ「唐詩朗誦CD」はどちらかと言えば平均的な読み方であり、朗誦会ではそれ以上の迫力と情熱を注ぎ込んだように思います。ほかの進行に関しては経験不足のところが多く、スライド写真の切り替えなど、多くの指摘が寄せられました。今後大いに改善をしていくつもりです。

 中国語で漢詩を朗誦することの意味は何か? ほかでもなく、漢詩の持つ音韻美を最大限に伝えることです。シェイクスピアの演劇を英語で聴いたほうが、遥かに深い感動が得られる如く、詩歌の味わいを知るには原文に越したことはありません。日本人が今日まで日本語訓読を通して読んで来た漢詩を、漢字そのままの語順での、オリジナルの中国音で聴くことによって、字数・押韻・平仄がもたらす音韻効果を実感し、漢詩に対してより一層豊穣な享受を得ることができるのです。そして、これは今まで漢詩を専ら視覚で観賞することから、視覚プラス聴覚での「体感」への飛躍でもあります。恰も洋画鑑賞を、吹替版からスーパー字幕版に変えると同じように。

朗誦中の金中

 今まで、漢詩の中国語読みを教える講習会や、漢詩を現代のメロディーで歌う企画はすでにありました。このような舞台で「朗誦」する試みは、私の知る限り日本初ではないかと思います。私は前に『扶桑風韻』の創刊号に、「音韻美」の導入が今後日本漢詩の発展にとって、重要な課題であることを唱えており、今回はこの理念を自分なりの方法で実践してみたわけです。

 200人近い来場者のうち、中国・台湾の出身者や中国文学専攻の大学教員を除き、大部分の日本人は中国語が分らないのです。これらの方々が、現代中国語の発音による漢詩朗誦に共鳴が得られるかどうかは、今回の試みの最大の焦点でした。

 結果から見て、この試みはある程度皆さんから理解を得られたように思います。中国語の内容が分らなくてもその音や雰囲気に共鳴し、また聴きたいという声が多く寄せられて来ました。この朗誦を聴くことによって、中国語そのものに興味を持つようになった方もいらっしゃいます。また、漢詩を楽しむため、以前からすでに中国語を勉強している方がいることは、アンケートから分りました。

 「朗誦」の第一歩は何とか歩み出しました。私の目標は、更に模索して意匠を凝らし、漢詩の「朗誦」を、一種の現代的舞台芸術にまで発展させることです。

 唐代では、教坊の楽人に歌唱される形で、漢詩が大衆に伝えられ、普及されていました。現代ではこうした社会習慣はもはや存在しませんが、我々の時代の長所を活かし、現代人に親しみやすい、詩歌朗読をベースにした「朗誦」の形で、写真・音楽などの舞台装置と合わせ、また、録音・撮影・CD・インターネットといった現代メディアを通して、広げることが可能だと思います。

 漢詩朗誦の試みを、今後私の芸術活動における一環として、そして、私に与えられた「天命」の一つとして、積極的に進めたいと思います。

 今回はるばる大阪や名古屋からお便りやメールが届き、「漢詩朗誦会」に興味を示し、そちらでの開催があればぜひ参加したいとの、応援のメッセージを頂きました。私は当然、地方で漢詩朗誦を広げ、多くの人に出逢うことを楽しみにしています。

 今回の朗誦会で痛感したのは、「朗誦」すること自体より、むしろ会場の用意、チラシの印刷、聴衆をいかに集めるかといった、事務的な準備作業に大変手間取ったことです。イベントを開催するには、これらの問題が解決できれば、容易になります。もしほかに漢詩朗誦に熱意を持たれ、今後日本における活動の展開や、舞台演出について、ご協力頂ける方がいらっしゃれば、大変有難いと思います。

 漢詩朗誦は、漢詩の普及にも有効であるように思われます。漢詩はその煩瑣な規則と奥深い内容によって、全く知らない人がそれに興味を持つまで、どうしても一定の時間を必要としますが、迫力と感情のこもった「朗誦」を聴くことによって、一瞬のうち漢詩の魅力に憑かれることも、あり得るのではないかと思います。

 衰退していく漢詩、頽廃していく道徳……これは日本と中国が共通に直面する現代の課題です。多くの新世代の人はもはや漢詩には興味を持ちません。漢詩の「沙漠化」が刻々と進んでいます。

 石川忠久先生は日本漢詩界の有志を率いてそれに対抗し、林立する高層ビルに囲まれながら、緑に覆われている湯島聖堂は、沙漠のオアシスのようでもあります。私は、違う立場の別な方法で参与します。自分の「肉声」を以って、この漢詩の沙漠化に断固立ち向うつもりです。

<金中詩作>

詠菅原道真 
  菅公清質復誰倫 喜怨還同白氏親
  玉潔情操猶勝雪 錦華文采自通神
  繁都月色来新夢 孤島鐘声伴老臣
  寄語東風相問迅 梅花無主莫忘春

菅公の清質 復[また]誰れとか倫[とも]にせん、喜怨還[また]白氏に親しむ。玉潔情操 猶お雪に勝り、錦華文采 自から神に通ず。繁都の月食 新夢に来たり、孤島の鐘声 老臣に伴う。語を寄せて東風に相門迅[もんじん]す、梅花主無くとも 春を忘るる莫[な]かれ。