(2005年04月01日)

七絶は軽妙に作るべし

「大法輪」の漢詩選者をつとめて
全漢詩連理事  奥田 魚錢

 仏教雑誌「大法輪」、これは現在発行されている全国の月刊雑誌の中で、唯一の漢詩投稿欄を有するもので、我々漢詩壇にとって、真に貴重な存在である。

 小生が冨長蝶如詞宗の勧めで投稿を始めたのは、東京オリンピックの年で、その当時は各地に老成作家と称される先生方が多数おられ、小生輩の新人が投稿しても格の違いありて、年に一回か二回の当選であった。

 選者は斎藤荊園先生で、常々、没になっても毎月投稿を続ける事が大切であると言われていた。小生もその言に従い、平成元年に、2代目選者の太刀掛呂山詞宗の推挙により選者を命ぜられる迄、休む事なく月々投稿したのである。

 その後、老成作家の先生方も多く仙遊され、今や寥々たる衰頽の時代である。その因としては、世上「特に若年者」の漢字離れ、異邦文化であり法則が多く煩わしい、それに現存作家の不勉強である。昔より三多「多く読み、多く作り、多く改める」という漢詩作りの大原則がある。この語は皆がよく知ってはいるが、さて、実行している者が幾人いるであろうか。

 まず詩書を買わない、買わないから読まない、読まないから解しない。今日、白文で漢詩を読める者は誰ぞ。愁うべき、悲しむべき現状である。

 さて投稿詩の内容は、三段階に分類される。一は、老成の者で作詩に手なれている人達で、残念乍ら以前にくらべ、レベルは低下している。二は、平仄、韻等は可なるも、着想、措語が平凡で詩情が少なく、私造語を無理に用いる人達。三は、作り方の本で熟語を並べ四句を作るので、詩情なく読後に何の面白味も残らない人達。漢詩欄の割当ては2頁で、絶句で18首。没になるのは三の人達である。

 最近は三ヶ月続いて没になると投稿を中止する根気のない人が多く、嘆かわしい事である。

 次に作風を見ると、儒者風「使用文字が生硬で面白味なく、古い法則に拘われ不自由な作り方の人達」。僧侶風「蔬筍の気多く風味に乏しき人達」。詞人風「詩情、風味ありて面白き作あれど、一部に才を誇り、故に綺語を用い嫌味のある人達」。これらの可否、選擇は作者自からが考える事で、他より指示する事ではないが、蝶如師は常に「七絶は軽妙に作るべし」と言われていた。

 「詩に別才あり」とは、よく聞くが広瀬淡窓先生の「淡窓詩話」に、「鈍才は教う可し疎才を奈せん」とある。才の鈍なるは、その適切な指導にて上達の可能性あるも、才の疎なるは、一首出来ると、推敲、検考なく次の詩作に入るので、詩数と作詩年数は多いが、その詩は如何ともなしがたく蕪雑な作の積重ねである。

 これ等は、自覚なく、自分で相当な作家と感違いし、朱を加えると文句を言うのである。この人達は共に詩を語るべき者にあらずと、小生は敬遠している。以上の外に風雅は人間向上に適す、又、商量について等々話題はあるが、紙面が尽きたので、これは他日に讓り、終了とする。