(2006年04月01日)

<文壇こぼれ話B>

文壇三大音声
常務理事  岡崎 満義

「悪筆四天王」のつづきをもう少し。

 今の印刷はすべてコンピュータ写植になっているが、昔は、鉛活字が中心だった。それに筆書き文字と写植をおぎなって、目次やページを作っていた。片手に封筒位の大きさの木箱をもって、学校の黒板位の大きさの台にぎっしり並ぶ鉛活字を、手ぎわよく原稿に従って拾っていく。その速さ、ベテランの手の動きを見ていると、神業といいたくなるほどの鮮やかさだった。

 “悪筆作家”については、特訓して専門の植字工を養成していた。プラスチックのファイルの片面に、問題の悪筆原稿、その裏面に活字になった“正解”が入っていた。凸版印刷で私が見た練習用のファイルは、木々高太郎、徳川黄声、丹羽文雄の原稿だった。

 そんな訓練を経て、どんな悪筆原稿でもちゃんとページに組んでくれる植字工の方々には、本当に頭が下がった。編集部は校了3日間は印刷所に詰めるのだが、必ず日本酒一本、植字工の職場に届けるのが常だった。

 昭和47、48年頃から、悪筆原稿は担当編集者が“和文和訳”をしなければならなくなった。悪筆専門植字工を養成する余裕が、印刷所にもなくなったのだ。それに鉛活字そのものが消え、コンピュータ写植にかわり、職場は殆ど若い女性のキイパンチャーにかわってしまった。

さて、「文壇三大音声」

 編集者仲間で、丸谷才一、開高健、井上光晴の三氏がそうだった。三人とも、よく響くボリュームのある声が、腹の底から飛び出てきた。

 井上光晴さんには二、三度会っただけで、声のことよりも食事のことをよく覚えている。自宅に伺って、鍋料理をつつきながら、お酒をご馳走になったことがある。井上さんは「ぼくは静止した料理はあまりすかんのですよ。いつもグツグツ動いている料理がいい。だから、すぐ鍋になってしまうんだ」と言った。

 丸谷さん、開高さんについては、それに安岡章太郎さんを加えての「文壇三大音声」という意識が私には強い。この三氏は一時期、芥川賞選考会の委員として、選考会で同席していた。選考会は文藝春秋編集長が司会をするならわしだった。

 年2回の芥川賞が決まると、受賞作が載る3月号と9月号は、少なくとも5万部はふだんの月より多く売れる。話題作の場合は、ときに売切れになって、増刷することもある。編集長としては、何とか受賞作を出したい、という気持ちである。

 ところが、声の大きい委員が受賞に反対、ということになると、これは大変だ。10人ほどの委員の中で話し合いがつづくのだが、どうしても声の大きい人の論が、会の流れをつくってくる。それも一人ならまだしも、丸谷、開高、安岡の三氏に揃って受賞反対にまわられると、完全に受賞作ナシということになることが多かった。

 私も何度か司会をしたが、一番の心配は声の大きい三人が反対にまわることであった。開発初期のジェット機が「音速の壁」をいかに克服するかが問題になったことがあるが、私はそれにならって、ひそかに「大音声の壁」と名付けて、いつもある種の恐怖感をもって席にのぞんでいた。

 声の大きさ、ということでいえば、三島由紀夫さんの声も大きかった。昭和41年7月、初めて芥川賞委員になって席に着いたときの三島さんの発言ぶりは、水ぎわ立ったものだった。

 それまで、たとえば、川端康成さんや滝井孝作さんはまことに寡黙で、「この作、とります」「とりません」など、言葉数が極端に少なかったが、三島さんはこの作品のどこがよく、どこが欠点であるか、まさに立て板に水のごとく、大きな声で朗々と説き、他の委員たちの度肝抜いた。