(2005年10月01日)

大漢和辞典を読む

石川 晏子

 書架から厚く重い大漢和の一冊を取り出し、机の上に置く。私の至福の時が始まる。

 私が岳堂から作詩の手ほどきを受けたのは、もう20年も前にさかのぼる。詩を作るに当って、漢和辞典が必要となった。最初は韻が出ている中辞典、それから広漢和辞典、今ではとうとう大漢和辞典を使えるようになった。

 机の上の大漢和辞典の頁を一枚一枚丁寧にめくる。今日は玉偏にしょうか。先ず親字を読む。それから熟語に移る。玉の仲間だから美しい言葉が続く。玉偏だけで、ざっと200頁、詩に使えそうな言葉を書き留める。玲瓏、玻璃、琳琅、j?など、併せて典故も読む。それらは、先人の詩文の中に燦然と輝いている。知識がふえると同時に想像力が掻き立てられ、段々と様ざまな状景が浮び上がってくる。私もこれらの言葉を使って詩を作ってみたい。思いつくままに、「玲瓏月?山湖水」とか「玻璃瓶裏緑葡萄」などと書き記す。辞典は唯、無機的に言葉が並んでいるだけだが、読み手の気持次第で違った様相をみせてくれる。まるで大きな宝石箱に迷い込んだ思いがする。

 ある時、水部の項を読んでいる中に、さんずい偏だけで詩が出来ないものか、と考えた。そこで出来たのが次である。漂泊の杜甫をイメージしたものである。

   詩人漂泊    (二松詩文七十二号掲載)
漂泊沈淪清渭涯 漂泊沈淪す 清渭[せいい]の涯[ほとり]
浮萍漾漾泛漣? 浮萍漾漾 漣?[れんい]に泛かぶ
漫沽濁酒滞津渡 漫に濁酒を沽[か]いて
津渡に滞[とど]まれば
涕涙滂沱瀉水? 涕涙滂沱[ぼうだ]として
水?に瀉[そそ]

 このような事は邪道だと岳堂は言うが、実に面白く、飽きることを知らない。

 今、北の丸公園近辺の樹林と池をイメージして、水・木二部首を使っての詩に挑戦しているが、平仄、韻の制約でなかなか巧くいかない。

 ともあれ、大漢和は私のバイブル、常に私の傍にあって私を鼓舞してくれるのである。