(2007年01月01日)

今の高校の漢文教育について

どこに希望を見つけるか
栃木商業教諭  沢村 茂樹

 私は大学で中国哲学を専攻し、卒業後国語教師として高校に奉職しています。今回幸いに発言の機を頂いたので、現代高校の漢文教育についての所感など申し上げたいと思います。

 現在の中等教育に占める漢文の地位の低下はご存知の通りです。戦前「国漢数英」と称し主要科目に列せられた漢文は、今や国語の古典分野の一つとして吸収され、中学高校の授業時間は激減しています。恐らく旧制中学の3分の1にも及ばないでしょう。

 また、現在入試で漢文を課している大学は以前に比べて寥々たるものです。これが漢文離れに拍車をかけているのは否めません。世界史未履修問題で露呈したように、受験に必要ということは、よかれあしかれ問答無用の強烈な学習動機なのです。万一、漢文を受験科目に含めている国公立大や私大が皆無になったら、学習者は地を掃ってしまうかもしれません。

 こうした中で漢文を講じている学校はまだよしとせねばなりません。現在の教育課程では、世界史と違って古典分野は必修でも何でもないのです。だから全く漢文を学習しない高校の数も相当あるでしょう。やむを得ない事情もあるにせよ、必修とは何なのか、考えさせられます。ちなみにわたくしの勤務校(商業高)では、訓読の約束事、「春暁」など唐詩7首、「矛盾」など故事3編、これが本校3年間で学ぶ漢詩文の全てです。

 上のような状況下、学ぶ当の生徒は漢詩文についていかなる感情を抱いているのか、各種団体が行う人気科目順位調査があります。管見の及ぶ限り、悲惨にも漢文は常に「不人気」の上位を争っています。残念とも何とも言いようがありません。授業を行う立場から見ていると、現代文や古文に比べて、それほど嫌われているようにも思えないのですが。

 こう見ていくと、現在の漢詩文は衰亡の一途をたどっているかのようです。しかし、日本人の道徳・品性・情操を長く養ってきた漢詩文が弊履の如く遺棄され忘却されていくのは、教育者の端くれとして、座視するに忍びないところです。「為去聖継絶学」の名句が想起されます。

 幸い、一方では、漢詩文そのものでなくとも、その関連分野・周辺領域に関心を持つ若者は少なくないのです。つまり、漢字検定、三国志、現代中国語等々に興味を示し、学ぼうという者は到る処にいます。これらの興味を端緒として向学心を高めていけば、より多くの生徒達を広大・豊穣な漢詩文の世界に導き入れることができるでしょう。

 また今夏二松学舎大主催の「第1回高校、大学生漢詩コンクール」が実施されました。この実現はまことにめでたく、こうした快挙も、若者が漢詩の世界に親しむためのよすがとなるに違いありません。是非とも今後の発展拡充を望みたいものです。

 さて、その案内が私の学校にも届くや、参加を校内に呼びかけたところ、4名(みな女子)の希望者が出ました。700余名の中の4名、1パーセントにも満たぬといえ、この時勢に、国語の時間も乏しい商業高校の中で、詩作に手を染めようという生徒があったというだけでも喜ばしく思ったことです。さっそく平仄等の手ほどきをして作成応募したところ、図らずもそのうち一人が最優秀賞の栄誉に浴したのはありがたくも面映ゆい思いでした。

 その朽拙ともかく、彼女たちの作品は多くの生徒諸君の目に触れさせたいと思います。それは漢詩との距離を縮めることになるでしょう。古代中国の傑作絶唱に取り組んではあまりに偉大すぎて辟易するかもしれない高校生も、こうした同世代「詩人」の作を示されたら漢詩に対して別の印象を持つのではないでしょうか。古典とは博物館中の遺物でなく、今なお現に生きているものだということに気づき、親しんでもらいたいものです。

 ところで親しみを持たせるという点で言えば、現在の漢文教材にはかねて意見があります。それは有名な日本人の漢文を大いに採用して欲しいと言うことです。

 むろん前述のように時間数そのものが少ないのですから、あれもこれもという訳にはいきませんが、戦前の教科書では日本漢文から入ったというのは国粋主義もありましょうが、むしろやはり分かりやすいからでしょう。

 その意味で、先哲叢談、日本外史、漱石鴎外や乃木希典の詩文など、歴史や現代文で既出の事項や人物を別の角度から眺めることにもなり、取り付きやすく、印象も深く、内容も理解すやすいのではないかと思います。吉川幸次郎博士の言うように、漱石の「木屑録」などもっと読まれて然るべきです。

 日本の文化をおおよそ2000年として、長らく漢詩文は大きな精神的支柱でした。それが否定されたのはたかだかここ60年。漢詩文は東アジアのあらゆる智慧の結晶です。「天之未喪斯文也」と信じ、自身がまず精進し、後進を導きたいと願う次第です。