(2007年01月01日)

<文壇こぼれ話D>

取れなかった原稿A 大島 浩さん
常務理事  岡崎 満義

 茅ヶ崎海岸すぐ前の高台、松林にかこまれて大島浩さんの家があった。大島さんは日独伊三国同盟の立役者、駐独大使であった。通された広い応援間はごく質素な感じだったが、部屋の隅の机の上の写真たてをよく見ると、大島さんとヒトラーが向いあったものだった。

 昭和40年頃、相対した老人は、ジャンパーを無造作に着て、背筋がピンとのびていた。かくしゃくたる、という言葉そのものの老人だ。80歳位だったろうか。

 「私は東京裁判で、木戸、荒木らと同様、どういうわけか判事の1票差で、絞首刑をまぬがれた。反対に、太平洋戦争には殆ど責任のない広田弘毅さんは、1票差で絞首刑にされてしまった。戦争推進者というのなら、広田さんより私の方がずっと罪は重いのです。こうやって生きているのが、いつも申し訳ない気がしています。

 当時、日本の進むべき道はあくまで三国同明の方向だと信じていました。しかし、日本が敗れたのは、私の見通しがまちがっていたことです。国に対しておおきな責任があります。巣鴨を出た人の中には、再び公の仕事について元通りに活躍している人がいますが、国家としての見通しをあやまって敗れた以上、どんな形でも表にでるべきではない、と思っているんです。

 というわけで、折角ですが、私の名前でものを書くつもりはないのです」

 まず。99・9%ダメだよ、と編集長にいわれていたので、まあ、顔を見るだけでもいいや、と思って訪ねた。あまりにあっさりと断られたが、半分あきらめながら、大島さんの昔話を聞いているうちに、万に一つ、気が変らないとも限らない、と考えて粘った。

 「今でも私はヒトラーは天才だと思っています。いまは人道主義。平和主義、国際協調が政治家をはかる基準になっていますが、当時は国家の勢力をどこまで伸ばすかが基準だった。その意味でいえば、やはりヒトラーはアレキサンダーやナポレオンにつぐ天才だと、今でも固く信じています。

 ヒトラーは共産主義を蛇蝎ごとく嫌っていましたが、国内政策では土地問題など多くの点で、ソ連のやり方をまねしていましたね。スターリンを結構、尊敬していました。ドイツがソ連に勝ったら、スターリンにはドイツにある古城を一つやって、ゆっくり余生を過ごさせてやるんだ、と私にはなしてくれたことがありました」

  大島さんは今でも毎日、ドイツ語の本と雑誌ばかり読んでいる、と言った。

 「大使館付の武官としてはじめてドイツに行ったとき、大学出たての青年についてドイツ語を習いました。使ったテキストはローザ・ルクセンブルグの『ロシア革命』と、リープクネヒトの『手紙』でした。戦犯として巣鴨の刑務所に入っているとき、ふとそのことを思い出した。

 彼らも方法手段はことなっても、一身を賭して国民のためにつくしたのかもしれない。日本でも幸徳秋水なんかは、やはり国のためにつくすことを本気で考えていたんじゃなかろうか。そんなことがしきりに気になりましてね」

 話は尽きなかった。オーストリアの英国大使館の下働きの夫婦をスパイに仕立てて、情報はウィーンの中央公園のベートーベンやモーツアルトの銅像の前で受取っていた、など、映画の中の1シーンのような話に、私は原稿依頼も忘れて、うっとり聞き入っていた。