(2007年04月01日)

<文壇こぼれ話E>

取れなかった原稿B 石垣りんさん
常務理事  岡崎 満義

 ときどき、詩集をひっぱり出して、ぼんやり眺めることがある。だいたい、天野忠か石垣りんの詩だ。お二人ともすでに亡い。天野忠の詩集は、いまの超高齢化社会・大長寿時代を生き抜く者にとって、最良の漢方薬のようなものだ。年金が少々不足してこようと、呆けが進もうと、天野忠の詩を読んでいれば、笑って死ねるような気分にさせてくれるのがいい。

 石垣りんの詩集は、婦人、女性、でなく、日本の〈おんな〉についてのバイブル、おんなの生活の探求の書、というふうに思える。私が一番好きな「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」「表札」という詩は、つつましやかな平易な言葉で語られる、凛としたおんなの誇りと仕事にからめとられた男への、なおぬくもりのある励ましのメッセージになっていて、何度読んでも、体の奥底まで響いてくる。

 石垣さんは昭和9年、東京赤坂の尋常高等小学校を卒業して、すぐ銀行に勤めた。最初の給料をもらって、読みたい本が買える、と喜んだ石垣さんは、同時に「ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。」とふりかえり、「エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です」と書いている。

 昭和46年に発表されたこのエッセイの一節が、ずっと頭から離れなかった。私は昭和35年に出版社に入社したが、もちろんその頃、働く女性は珍しくなかった。それでも彼女たちは、“職場の花”と呼ばれ、何年かつとめたあと、寿退社して専業主婦になる、という腰掛け勤めが定番コースだった。

 今の女性は職場の花どころか、職場の幹になりつつある。石垣さんの頃は何だったのだろうか。職場の根っ子、だったろうか。石垣さんは定年まで、いわゆる“お茶汲み花”的な仕事をしてきた人だ。男社会の職場を漁網にたとえれば、いたんだ仕事や人的ネットワークとしての網のほつれをつくろうようなことを、40年担ってきた、といえるかもしれない。

 昭和50年のある日、新聞を読んでいて、文化短信欄に石垣さんが銀行を定年退職した、とあった。石垣さんに原稿を頼もう、と咄嗟に思った。職場の根っ子としてつとめてきた石垣さんの会社観が知りたかった。戦前、戦中、戦後を通して、会社観はどのように変わったであろうか、そして、大学卒のエリート男性たちが、石垣さんのそばを生き急ぐように駆けぬけていく姿、馬車馬的に仕事をし、出世競争していく様を、石垣さんはどう見ていたのか、ぜひ書いてもらいたいと思って会いに行った。

 ペレー帽をかぶった、まんまるい顔の石垣さんは、たえずニコニコしながら「私は長年、詩を書いてきましたが、文章は得意ではないので、さあ、書けますかしら」とはじめは渋ったが、とにかくひきうけてもらった。

 ところが、どうしても書けなかった。何回催促しても出来上らない。では、私がインタビューしますから、それを速記にとってリライトしてもらえませんか、ということになった。2時間ほど話してもらった。ゆっくりした口調で、さりげない銀行生活が語られた。「面白くないですねェ、ちっとも」と笑った。

 「高等小学校を卒業するとき、みんな記念に象牙の印鑑をもらいました。女子のハンコは男子の半分位の細さのものでした。それを私は毎朝、出勤簿に押して、40年たちました」と言って、石垣さんはハンドバッグの中から、5センチほどの小さなハンコを取り出した。ハンコは印肉の朱にみごとに染まっていた。それも、「石垣」の文字面から上に向って、朱色から淡いピンク色へと、鮮やかなグラデーションになっているではないか。

 「この朱からピンクまでの色の中に、私の40年が詰っているんですね」と、石垣さんはこのときばかりは、シンとした顔になった。

 原稿は結局、最後まで出来上らなかった。