(2007年11月16日)

<文壇こぼれ話G>

取れなかった原稿D 大内兵衛さん
常務理事  岡崎 満義

 義母の見舞いに神戸に行ったとき、5月26日付の神戸新聞夕刊を見た。社会面に「戦時弾圧された経済学者・大内兵衛氏――拘置先で揮毫漢詩発見」と大見出しがおどっていた。

朝見梟盗摧銕錠 朝に梟盗[きょうとう]の銕錠を摧[くだ]くを見
夕聞王師圧徐州 夕べに王師の徐州を圧するを聞く
誰云幽囚必徒然 誰か云う幽囚必ず徒然たらん
別有史眼壺中濶 別に史眼 壺中の濶[ひろ]き有り

 「漢詩は、日本軍による38年5月の中国・徐州占領など内外が騒然とする中『とらわれの身では何にもできないと人は言うだろうが、自分には歴史を見る目が備わっており、留置場に閉じ込められても、狭苦しいとは思わない』との心境を伝えている。末尾に『昭和13年初夏於早稲田署 大内兵衛書』との署名がある」とあり、堂々なる毛筆の七絶が表装された写真が添えられていた。

 一海知義・神戸大名誉教授が「韻を踏んでいないなど漢詩の規格に合わない点があるが、リズムがしっかりし、正しい漢語も使われている。何より詩の内容が自分の志を間接的に述べられたもので、漢詩本来の方法を取っていることが立派だ。字もしっかりしている」とコメントしている。

 マルクス経済学者としては京大の河上肇氏の漢詩が有名だが、大内兵衛氏もやはり漢詩の素養があったようだ。一海氏の指摘のように、韻を踏まず、平仄も合っていないのは、明治人の教養としての漢詩が、斜陽の時代を迎えつつあったことをあらわしているのかもしれない。

 私は大内さんには一度、鎌倉のご自宅に原稿をいただきに行ったことがある。稲村ヶアの小高い丘にあって、鎌倉の海が一望の下に見渡せた。昭和40年頃だったと思う。まだ全共闘運動の始っていない頃、美濃部都政のブレーンとして、かくしゃくとした存在感があった。

「君の会社の電話交換手はなかなかいいねェ」

「交換台は作家の方々からも、すぐに声を覚えて、名乗る前に〇〇先生! と言ってくれるので気持ちがいい、とよくほめれます」

「私が電話をよくかけるところで、交換台のよくないところが三つある。わかる?」

「………」

 「総評、社会党、日本銀行だよ。この三つの組織に共通しているのは、自分たちは世のためになるいいことをしている、と思い込んで疑っていないことだね。だから交換台までそんな空気に染まるんだろう」