(2008年02月15日)

<文壇こぼれ話H>

取れなかった原稿E 川端康成さん
常務理事  岡崎 満義

 川端康成さんの原稿取りには、二つの大きな壁があった。一つはお手伝いさんの壁、もう一つ川端さんご当人の寡黙・沈黙の壁。鎌倉・長谷のご自宅を訪ねると、玄関のすりガラスの戸の上部が透明になっていて、そこから中年のお手伝いさんの顔が覗く。

 「どちら様」「文春の岡崎です」「川端は今、休んでおりますので、又おいで下さい」。そんなやりとりが何回かあって、顔と名前を覚えてもらい、やっと中に入れてもらえる。そこまでに4、5ヶ月はかかったろうか。玄関ではなく、庭を通って縁側から、10畳位の広い部屋に通される。部屋のまん中に大きな机がひとつ。座布団に坐っていると、お手伝いさんが和菓子とお茶を、お盆のせて持ってきてくれる。お菓子を食べ終った頃に、着物姿の痩せた川端さんが静かに、蹌踉たる足どりで入って来て、私の前に坐る。

 要件は翌年か翌々年の新年号に、短篇小説を頼むことだ。川端さんは「ハイ。わかりました」と言ったきり、何も話してくれない。ギョロリとした大きな眼が、まさにこれが末期の眼か、と思わせるように、瞬きもせず、ひたと私の顔に向けられる。お願いの件は、ものの一分もあれば終ってしまう。何を話そうか。あれこれ話題を探す。川端さんは一言も発しない。最近読んだ文学界新人賞の作品について話す。「そうですか」

 あとの言葉は出てこない。こんどは少し前のオール読物新人賞の話をしてみる。川端さんはニコリともせず、相変わらず「そうですか」の一点張。尻のあたりがムズムズし、いたたまれなくなって時計を見る。まだ15分しか経っていない。冷や汗がジワリ。もうダメだ。「では、今日はこれで失礼いたします」と言うと、川端さんは「まあ、もう少しゆっくりしていったらどうですか」

 私は呆々の態で辞去した。社に帰ってまったく話がはずまず、相手にしてもらえなかったことを編集長に告げると「川端邸で話をしてもらえずに、泣き出した女性編集者もいたからね。あの人は猥談が好きだから、エロ話の一つもすれば空気がグンと柔らかくなるんだよ」とにべもない。

 訪ねるたびに同じことの繰返しだった。あるとき、川端さんは菊池寛が文春を作ったときの同人の一人なのだから、社内の動向を話してもいいだろう、何も純文字の話だけにこだわることはないだろう。と思いつき、それ以後、日常茶飯事を何でも話題にするようになって、気が楽になった。川端さんも慣れてきて、奥の間で腹這いになってお灸を据えているところに通されて、鶴のように、というより、トリのガラのように痩せた、と言いたいような背中を見ながら話をしたこともあった。

 ほぼ2年がかりで、短篇小説が取れそうになった。川端さんは書く時は、ホテルか割烹旅館に入った。このとき、川端さんは四谷の福田家に泊り込んだ。校了1日目に電話があって駆けつけた。400字詰原稿用紙に13枚できていた。1枚目に「友人の妻」と題名が書かれ、小説の冒頭は宍道湖畔の旅館に宿をとった「私」が、湖の上をゆったり舞う鳶を見る描写から始まっていた。太字の万年筆をまるで毛筆のように使った感じの字で、一字一字ていねいに書かれていた。とくに、鳶という字が、ほんとうに空に舞っているように見えたのが、強く印象に残っている。

 しかし、結局、小説はそれ以上、書き続けられなかった。2年ばかり催促をつづけたがダメだった。昭和48年、川端さんは自死し、「新潮」10月号に「絶筆」として、その原稿が載った。小説「友人の妻」は13枚書かれたまま、机の引き出しにしまわれていた、と解説にあった。