(2008年11月15日)

<文壇こぼれ話K>

“葬式ばあさん”のこと
常務理事  岡崎 満義

 随分むかしの話だが、ある若い大学教授・評論家に訊かれたことがある。「文壇ってのは、どこにあるの?論壇といわれているけど、そんなものはなかったけどね」。論壇時詳にも顔を出した新進の学者だった。

 「昭和40年代までは、文壇という、ふしぎなものは、たしかにあったと思います。」、と私は答えたが、どこにあるの?と言われても、実ははっきりしない。作家の集まるパーティとか、文士劇やら忘年会、作家と編集者が仕事の話をする出版社の編集部とか、仕事半分、遊び半分の酒場とか…。

 吉行淳之介さんが「腿尻3年膝8年」と、酒場ホステス攻略にはそれだけの年季がいる、と言ったり。梶山季之さんが、「ハゲ非ガン説」(ハゲの人はガンにならない)という怪談を流布したり。

 今風に言えば、酒場から発信される作家情報が、ウソもホントもこきまぜて飛び交った時代が、たしかにあったのである。

 「まあ、空気のようなものです。論壇の構成員は基本的に大学という組織に属する月給取りの先生です。文壇の作家は文字通りの自由業=不自由業で、不定期収入が基本形。そこからかもしだされる、何ともいえない空気、かもしれません」と分かったような分からないようなことを言った記憶がある。

 たとえば、昭和40年代まで「文壇冠婚葬祭係」が存在した。講談社の榎本さん、新潮社の麻生さん、文春の樋口さん。作家の葬儀があると必ずこの三人が集まって、すべてをとりしきった。

 葬儀の段取り─どの程度の予算で坊さんを呼び、式場をどこにし、受付、駅からの道案内。VIPのアテンド…など一切を手配し、とりしきるのがつねだった。手伝いの人員もA社から10人、B社から5人…と、作家の関係の深さによって、人数も決めた。

 それは作家の家庭の事情を知りつくし、文壇内の地位をはかり、その“現役度”“過去の名声度”なども考慮しながら、みごとに葬儀を完了させた。

 そんな文壇葬儀に顔を出す“葬式ばあさん”がいた。ちゃんと喪服を着た上品なおばあさんだった、という。作家の葬儀の日に早くやってきて、受付に立つ。受付の人たちは各出版社から派遣された若い人たちだから、この上品そうなおばあさんは多分、親戚の人か何かだろう、と疑うことなく一緒に並んで、弔問の客に対することになる。

 葬儀が終わる頃、いつの間にかこのおばあさんの姿が消えている。あれッ?と思っていると、香典がなくなっている、という次第。世に言う香典泥棒、というわけだ。葬儀に動員されるいろいろな出版社の社員はその都度かわるから、そのおばあさんは長く正体はばれなかったようだ。

 しかも、この葬式ばあさんは一つの見識があった、と伝えられている。

 出かけていくのは純文学の作家の葬儀だけ。大衆文学の作家の場合は顔を出さない。いつか、そんな噂も伝わって、ある中間小説作家が亡くなったとき、その作家の夫人が、「あの葬式ばあさん、来てくれるかしら」と心配したという話も聞いた。

 文壇とはこれ、と定義できないが、たとえば冠婚葬祭にまつわるふしぎな濃密な空気のようなものがあったところ、とは言えるかもしれない。

 そんな空気は、だいたい昭和40年代で消えたように思う。私は昭和49年(1974年)が、昭和39年の東京オリンピックについで、東京の風景が大きく変わった年だと思っている。

 立花隆さんの「田中金脈の研究」(文藝春秋11月号)で、田中角栄内閣がつぶれた。小野田寛郎少尉がルバング島から帰還した。朝日新聞連載の長谷川町子さんの「サザエさん」が終った。長嶋茂雄さんが現役引退した。

 ゴーマン美智子さんがボストンマラソンで優勝して、東京にも走る女性が大量に出現した。Tシャツ短パンで皇居のまわりをランニングする女性の出現は、東京の風景を確実に変えた。

 文壇にも変化があった。芥川賞が始った昭和10年から昭和49年、昭和50年から現在までの男性作家と女性作家の比率は10:1と2:1、になっている。今はほぼ1:1。「女流作家」という言葉は、完全に死語になった。そのあたりで、ほぼ「文壇」も消えたように思う。

 とすれば、文壇は貧しい時代の男社会が生みだしたものだった、といえそうだ。