(2006年01月01日)

第3回 森春涛と岐阜竹枝
三十六湾春水来たる

演歌「柳ヶ瀬ブルース」は竹枝詞の伝統?

全漢詩連運営委員
  綾部 光洲

 かつて「明治三絶」の一つと謳われた、わずか15歳の少年の手になる漢詩があります。それが「岐阜竹枝二首」です。その第一詩をご紹介いたしましょう。

岐阜竹枝二首(うち一首)

環廓皆山紫翠堆 廓を環り 皆山にして 紫翠堆し
夕陽人倚好樓臺 夕陽 人は倚る 好楼台
香魚欲上桃花落 香魚上らんと欲して 桃花落つ
三十六灣春水來 三十六湾 春水来たる

(平声仄韻)

 岐阜は、清流長良川を擁し、名山金華山に抱かれた、あの斎藤道三や織田信長ゆかりの城下町です(写真1参照)。件の漢詩は、おそらく岐阜近辺の、長良川からの眺望をもとに詠じたものであり(高山説もあり)、自然と人事、山と川、上ると落ちるなど、対比の美学をちりばめながら、じつに溌剌とした、しかも情感の込もった、あっぱれな作でありましょう。

           

写真1 春を待つ長良川(金華山より、12月撮影)

 15歳の森魯直(泰二郎)少年、すなわち若き日の森春濤は、岐阜にある医師の親類の家に預けられている間に、この詩を作ったのでした。天才詩人森春濤の大成を予兆するかのような、新春を飾る名詩と存じます。


写真2 森春濤遺影と遺墨
(一宮市博物館刊『漢詩人・森春濤の遺墨』表紙より)

 森春濤(1819−1889、写真2参照)は、尾張一宮の医者の家に生まれました。医師となるも後に退き、地元一宮や愛知、岐阜を舞台に漢詩人としての名声を博し、後進を指導します。そしてついに明治7年の56歳の折り、満を持して、新都、東京に出て、御徒町の下谷に「茉莉吟社」を結びます。

 そしてもと同門の大沼枕山らとともに、空前の漢詩隆盛の立役者となるのです。『岐阜雑詩』『高山竹枝』『新潟竹枝』などの竹枝の名詩集、専門誌『新文詩』等を世に出し、まさしく一世を風靡し、三男の森槐南へとたいまつを渡しましました。

 中国清詩に基を置きながらも、他の追随を許さぬ竹枝詞(詩)の巨星としての、浪漫、華麗、憂愁な詩世界は、森春濤の独壇場なのではないでしょうか。世に、「詩魔」と称されたことも逆に誉れでありましょう。

 連載一回目で紹介した、悲運の竹枝詞詩人、杉田呑山の若き資質を見抜き(おそらく、東京で邂逅したと私はみます)賞賛の意を表したのも彼であり、優れた指導者としての一班を、示すでありましょう。

 10月下旬の晴れやかな1日、国語学会の関係で岐阜大学を訪れる際、念願かない、私は岐阜の地を初めて踏み、感無量でした。風光明媚でありながら、しかも細やかな陰影に富んだ風土があればこそ、あの幾多の名詩人(梁川星厳、大沼枕山、森槐南他)が生まれはばたいたのだろうと感じます。

 岐阜愛知の伝統、風土の力には敬服するばかりであり、現在も、幾多の漢詩人たちが大きな潮流をなしているさまは壮観です。

 さて、唐突ですが、名詞岐阜竹枝のお膝もとの岐阜市柳ヶ瀬を舞台にして、名演歌、柳ヶ瀬ブルースが出現したことは、因縁ありげに思われます。唐、劉禹錫以来の竹枝詞ですが、人情、風俗、男女の情愛の機微の表出などに、日本独自の発達を遂げてきたがゆえ、作詞家の意図は別として、結果的に日本竹枝詞の伝統を緩やかに受け継いでいると、わたしはみるからです。(柳ヶ瀬竹枝?同じ歌手の演歌に新潟ブルースもありました

 今回は日帰りのため、岐阜の紅灯の巷で、柳ヶ瀬ブルースを歌えなかった、小さな心残りと、漢詩の聖地に立てたという大きな喜びに満ちた岐阜の旅でした。