(2007年01月01日)

第4回 四天王寺と伝教大師
聖徳太子に捧げた漢詩

空海と最澄の漢詩を仲立ちにした麗しい交友
全漢詩連運営委員  綾部 光洲

 日本の仏教寺院の濫觴というべきお寺が大阪市にあります。その名が町の名になってしまったことで知られる天台宗四天王寺です。聖徳太子が立てたこの寺は、今なお善男善女でにぎわい。町と同化して活力に溢れています。そしてこのみ寺は、日本漢詩史においても重要な役割を担っているのです。

 読者の皆様は、伝教大師最澄の漢詩を照覧されたことがありますでしょうか。最澄は、生涯に相当数の漢詩を残したと推察されますが、著書等における宗教上の偈や韻文等を別として、実作例はほとんど文献に残っておりません。しかるに、大阪四天王寺に奉納した定型詩(五言律詩)こそが、ほぼ唯一といってもよいほどの確実な漢詩(唐詩)なのです。愛弟子の光定の著書『伝述一心戒文』中巻に記載されています。

 最澄は弘仁7年(816年)のある日、聖徳太子を慕い、四天王寺を参詣し、この詩を聖徳太子を祭った上宮廟に奉納したのでした。ご覧下さい。

       求伝法華宗詩
海内求縁力   帰心聖徳宮
我今弘妙法   師教令無窮
両樹随春別   三卉応節同
願惟国教使   加護助興隆

(平声東韻)

 序文には、(法華経に深い帰依を示された)聖徳太子(日本最古の肉筆、法華義疏は、太子の筆とされていますは天台高僧の生まれ変わりであり、自分は(仏法における)聖徳太子の「玄孫」である、太子への「渇仰」の思いに堪えず、謹んで一首を奉る、旨が述べられています。

 この詩は、決して文藻が華麗だったり、修辞が鮮やかだったりするわけではありません。しかし、最澄50歳時の一途な求道心がにじみでた、敬服すべき一作でありましょう。

 さてここで、詩中に弘法大師を連想させる「弘妙法」の名がありますが、弘法大師号は空海入定後86年を隔てて受号しましたので、偶然の産物です。とはいえよき因縁が潜む気もします。じつは空海も聖徳太子を慕い、四天王寺に借住をし、聖徳太子の墓を整備した等の伝承があるのです(四天王寺年表他。現在も寺では伝教大師や弘法大師が鑚仰されています)

 最澄と空海とは、一般に、仏法上の価値観の相違等により、弘仁4年頃から疎遠になったと思われています。ところが最澄と空海の漢詩を仲立ちにした交友は、健在でした。そのあかしが、伝教大師唯一の現存する肉筆の手紙、「久隔帖」です。



伝教大師筆久隔帖(国宝)

 日本書道史上の至宝、「久隔帖」は、空海が40歳を迎えた時、自ら作った賀詞に対し、和詩をつくって贈りたいとの強い意志表示の手紙なのです。そして最澄は約束を果たしました。近年発見された、空海が書いたとされるお礼の手紙「中寿帖」大阪施福寺蔵)において、最澄の漢詩に対し、空海は「目を豁[ひら]き、心を瑩[みが]きました」。と深い感謝の念を表しています。

 両者にぼたんの掛け違いがなかったといえば適切でないかもしれませんが、漢詩を仲立ちにした麗しい交友は永く続いた可能性があると、私は感じています。日本仏教の原点、四天王寺への弘仁7年の最澄の参詣、漢詩奉納の伝聞も、空海は、ゆかしい思いで伺ったのではないかと、想像をたくましゅうするものです。

 夏と秋の両日、聖徳太子殿に参詣し、四天王寺境内をそぞろ歩きながら、聖徳太子と最澄、空海らとのゆかしき因縁を思ったこの度の旅でした。兼子鐵秀師を始め、寺人の皆様の、ふいに立ち寄った旅人への心尽くしに、心より感謝御礼を申し上げます。



上宮廟の流れをひく現在の聖徳太子殿(聖霊院)