(2004年01月01日)

示門生  門生に示す

清真会常任理事
日本漢詩連盟常務理事
  窪寺 啓



   示門生 其一    門生に示す 其の一
方今書法亂C眞 方今の書法は清真を乱す
爭衒新奇正體泯 新奇を争い衒[てら]って
正体[せいたい][ほろ]
入木元來重傳統 入木[じゅぼく](書道)
元来伝統を重んず
人人勿誤惑梁津 人々誤って梁津[りょうしん](はしと
わたしば)
を惑う勿れ


     其三
        其の三
氣滿揮毫力有餘 気満ちて毫[ごう](筆)を揮えば
力余り有り
眼中無物曷思譽 眼中に物無ければ曷[なん]ぞ誉を思わん
若希紙上龍蛇躍 [も]し紙上に
竜蛇を躍らせんと希[ねが]わば
須讀東西萬巻書 [すべか]らく東西万巻の書を読むべし

 確たる根底の無い限り、徒らに破格の書風を弄して世に媚び衒う事は警むべき事と思う。

 勿論不断に新機軸を出すべく努力工夫する事は当然のことで、絶えざる錬磨研究の末に心手相応の書境に参入して書を生み出す事が、念願でなくてはならないと思う。

 心身共に書に没入して出来上った書は力が蘢っている。更に進歩を求めて、古人の善き書蹟を観て眼識を養い、多くの書物を読んで人生観世界観を高めたい。書境は元来禅と同様に単一の世界である事はいうまでもない。

 これは、私の詩と書の恩師である、金子哲太郎先生の七言絶句と、其の詩に付けられた文の一部である。

 先生の字[あざな]は子宣、始め慶雲、後に清超と号された。明治31年、東京日本橋村松町に生まれ、昭和55年に亡くなられた。享年82歳。若くして禅を、早野柏蔭老師の下で修行、書を豊道春海翁に学び、泰東書道院、謙慎書道会を創立、昭和6年二松學舎専門学校を卒業後、同校講師に就任されたが、此の頃より学長であった濟齋山田準先生に漢詩文を学ばれた。昭和48年二松學舎大学を定年退職、其の後は名誉教授になられた。

 これに先立ち、昭和27年に「清真会」を創立し、門弟に詩と書を教えられたが、其の頃に作られたのが冒頭の詩である。紙面の関係で三首の中、二首を紹介したが、先生は常々「詩と書は車の両輪のようなもので、どちらが欠けても完全な車にはならないと門弟を指導されて自詠自書を課せられた。

 其の結果、先生亡き後も今日に至るまで、清真会は此れを実行し、東京都美術館他で自詠自書の展覧会を行っている。

 先生は名利に恬淡、常に春風駘蕩たる仁徳の持ち主であると同時に、秋霜烈日の節操の高きを具えて居られた。其の詞藻は高雅にして逸興、時に諧謔・剽軽[ひょうきん]さも見られた。

 又、書は気韻堂々、筆力は鼎を扛る程であった。そして、生涯にわたり山田先生の教えを守り至誠を貫かれた。先生の詩書は其のようなお人柄から生まれたのである。正に「詩と書はその人の如しである。