(2004年07月01日)

磯濱登望洋樓

全日本漢詩連盟顧問 二松学舎元理事長  小林 日出夫

    磯濱登望洋樓    磯浜にて望洋楼に登る
夜登百尺望洋樓 夜登る百尺望洋の楼
極目何邊是米洲 極目何れの辺か是れ米洲
慨然忽發遠征志 慨然忽ち発す遠征の志
月白東洋萬里秋 月は白し東洋万里の秋

 これは幕末の陽明学者山田方谷の高弟であった先師三島中洲が、明治5年求めに応じて新政府に出仕し、翌6年新治裁判長として着任したその8月、一週間余りの休暇を得て、霞ヶ浦に船を浮かべて水郷に入り、そのあと大洗に遊んだ時の作である。

 小序に「祠前の一酒楼に投宿す。眼界千里、長谷経国杯を投じ太息して曰く、古人望洋の歎、豈に此れを謂ふかと。余曰く、以って楼に名づくべしと。遂に望洋の二大字を書して楼の主人に与ふ。酔余に一絶を得とある。

 小序は「蘇長公の風韻あり」と広瀬林外も評した名文であるが、詩も明治を代表する傑作である。

 この詩碑が大洗の松林に今もある。大洗神社入口の鳥居に近いバス停のまうしろ、高さ一丈以上の大碑で、昭和9年5月二松学舎の有志たちが「永くその風藻を留めたい」として建てたものである。

 終戦後、詩の転句が進駐軍に誤り読まれては破壊されるかも知れない、一時埋めておいてはどうかという話も出て、どうしたものかと悩む有志の問いに応えて、当時の那智佐伝学長が「遠征は、左氏伝定公四年不可以遠征に出づるも、征行の征にして征伐の意に非ず。詩経の之于征の征にあたり…」と、万一米軍から文句が出た時の釈明の典拠まで示されて、そのままとなり、現在は、大洗ライオンズクラブで管理されている。作中の望洋樓は今はない。

 この碑の台座が永年の風化によって空洞を生じ、万一倒れてはバス停の人命をも奪いかねないし、もうこれだけの大碑を作る石も手に入らないから何とか補強してくれ、という地元の同期生臼井君や桜井君から要請があって、10年ばかり前、私の在任中に空洞部分に生コンを注入してしっかり固めたものである。

 戦後の二松学舎の復興に力を尽くされた元理事長城山浦野匡彦氏も、この先師の詩を事のほか大切にして手帖にも書きとめていてもので、亡くなった時に遺族から「これは漢詩らしいが、父の作ですか?」と示されて、これこれなんですよ、と解説してさしあげたこともあった。私にとっては忘れがたい先師の名作である。