(2004年10月01日)

山田方谷の「伯夷叔斉を詠ず」
伊藤春畝の「金沢別業の作」

全日本漢詩連盟 常任理事  濱 久雄

 好きな漢詩は沢山あるが、私は特に次の二首を選んだ。それは山田方谷の「伯夷叔斉を詠ず」と題する七絶と、伊藤春畝の「金沢別業の作」と題する七律である。

翦商計成竟戎衣 翦商[せんしょう]の計成[な]って
[つい]に戎衣
宇宙茫茫孰識非 宇宙 茫々 孰[たれ]か非を識らん
君去中原幾周武 君去って 中原 幾周武
春風吹老首陽薇 春風 吹き老ゆ 首陽の薇[び]

 武王が殷の紂王の暴政に対し、遂に武力を行使したが、この広い宇宙に誰一人としてその非を鳴らした者はいなかった。しかし、伯夷・叔斉の兄弟はこれを徹底的に批判し、周王朝の成立を否定し、首陽山に隠れ、山の薇を取って食べ、不幸にも餓死した。

 その後、革命に継ぐ革命で、幾人もの武王が出現し、首陽山の薇も春風に老いるのみで、これを採る節義の士もいないのは、実になげかわしい。

 かつて学生時代に大東吟社の集まりで、土屋竹雨先生に対しある学生が、中国と日本の漢詩の中で最も優れている詩を一首挙げて下さいと質問したところ、先生はしばし熟考の末、この詩を以て答えられた。したがって、私にとって実に印象深い詩でもある。

風雲一擲憶淵明 風雲 一擲 淵明を憶ふ
荒径空留落後英 荒径 空しく留む 落後の英[はな]
隴畝秋高孤鶴挙 隴畝[ろうほ] 秋高く 孤鶴挙[あ]がり
松林月上臥竜横 松林 月上って 臥竜横たはる
海村草色含霜白 海村の草色 霜を含んで白く
山寺鐘声警夢清 山寺の鐘声 夢を警[さま]して清し
顕黙随時哲人事 顕黙 時に随ふは 哲人の事
無端対酒発吟情 端無く 酒に対し 吟情を発す

 明治25年、再び内閣総理大臣となった伊藤博文は、28年8月侯爵となり、大勲位菊花大綬章を賜わり、正二位に叙せられ、29年8月に辞任した。この詩はその翌年の冬に詠じたもので、功成り名遂げた伊藤公が、顕官を辞して野人となった心境を陶淵明に託して巧みに詠じ、格調の高い詩となっている。

 頷聯の孤鶴と臥竜は、伊藤公の分身的表象として絶妙であり、頚聯の対句も野趣あふれる光景を彷佛させる。しかも尾聯は用捨行蔵に徹した哲人の生きざまが明瞭に看取し得る。私の亡父青洲は特に晩年に至ってこの詩に魅力を感じ、この詩に次韻して多くの贈詩を試みている。

 したがって、私にとっても印象深い詩として、ここに敢て取り上げた次第である。