(2010年05月15日)


             三島中洲のこと
全漢詩連会長  石川 忠久

 今年はえとが庚寅(かのえとら)に当る。それで気が付いたのだが、二松学舎の創立者三島中洲(学祖と称している)の生れ年、天保元年(1830)も庚寅で、すなわち、誕生180年、還暦が三度廻ってきたのであった。

 1月7日、二松学舎恒例の新年互礼会の席上、挨拶した折、その話をして学祖を偲び、即席の詩を披露した。

双松迎歳色逾新 双松歳を迎えて色逾々新なり
学舎興隆在此辰 学舎の興隆は此の辰[とき]に在り
緬想先師天保世 緬かに想ふ先師天保の世
爾来一百八十春 爾来[じらい]一百八十春

 一百八十は杜牧の「四百八十寺」の真似をして一百八十[いっぴゃくはっしん]と読む。中洲は数え九十まで生きたので、没後百年にはまだならない。そんなに昔の人ではないのだ。

 二松学舎の玄関に、中洲の胸像が安置してある。細面[ほそおもて]の白髯の姿、やや伏し目がちに下を向いている。かなり老齢になってからのものだろう。

 これは、私が中洲の詩文を読んでの印象とかなり違うように感ずる。詩風は白楽天、陸放翁に学んで、平明、率直、至って伸びやか。また、旅行詠などでは人々との応酬、要請に応じて極めて精力的である。大正天皇(当時皇太子)に侍講として仕え、その師弟の間柄はまことにほのぼのと、時にくだけて茶目気[ちゃめけ]たっぷりでもある。

 一例を挙げよう。大正天皇の御作。

   三月二十日遊大崩遇雨帰
   三月二十日、大崩に遊び、雨に遇いて帰る

東風嫋嫋草色青 東風嫋々[じょうじょう]草色青し
天気不定陰又晴 天気定まらず 陰又晴
散歩且誘中洲去 散歩且つ中洲を誘ひて去[ゆ]
途中遇雨歩空停 途中雨に遇ひ歩空しく停[とど]まる
中洲忽卒不言別 中洲忽卒[そうそつ]に別れを言はず
飛降峻坂足自軽 峻坂を飛び降り足自ら軽し

 明治42年3月、葉山の大崩という所で散歩している時に、俄雨に遇い、中洲が慌てふためく様子が活写されている。末尾の「中洲は俄かにサヨナラも言わず、峻[けわ]しい坂を飛び降り、足取も軽く行ってしまった」という。

 師弟の間の親密さと、中洲の老いて钁鑠たる(当時は80歳)さまが窺われておもしろい。